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最高裁判所第三小法廷 昭和57年(オ)164号 判決

昭和五七年(オ)第一六四号事件上告人

石 塚   力

右訴訟代理人弁護士

尾 崎   陞

他四八名

昭和五七年(オ)第一六五号事件上告人

山 西 き よ

右訴訟代理人弁護士

渡 辺 良 夫

昭和五七年(オ)第一六四号、第一六五号事件被上告人

藤 岡   博

昭和五七年(オ)第一六四号、第一六五号事件被上告人

右代表者法務大臣

谷 川 和 穗

右両名訴訟代理人弁護士

西   迪 雄

右指定代理人

岩 佐 善 巳

外八名

主文

本件各上告を棄却する。

各上告費用は各上告人の負担とする。

理由

(上告人石塚力代理人尾崎陞、同風見早八十二、同新井章、同荒井誠一郎、同池田眞規、同岩崎修、同榎本信行、同大森典子、同川村俊紀、同金城睦、同加藤文也、同木村晋介、同古波倉正偉、同佐藤文彦、同佐藤太勝、同四位直毅、同椎名麻紗枝、同田村徹、同内藤功、同内藤雅義、同西山明行、同根本孔衛、同彦坂敏尚、同船尾徹、同松井康浩、同三津橋彬、同水野邦夫、同宮里邦雄、同矢田部理、同山下登司夫の上告理由と上告人山西きよ代理人渡辺良夫の上告理由とは内容が同一であるので、以下においては、両者を併せて単に上告理由ということとする。なお、上告理由書冒頭の総論において主張されている点は、いずれも同第二点以下の各論旨に含まれているので、右各論旨を判断するについて各該当部分を併せて判断することとし、総論のみを独立して判断することはしない。)

上告理由第一点について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論はない。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審の認定にそわない事実をまじえ、独自の見解に立って原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。

同第二点の一について

一原審の適法に確定した事実関係の概要は次のとおりである。

1  被上告人国は、関東地区に航空自衛隊の基地を建設する必要を生じ、旧帝国海軍航空隊の訓練所の所在地で戦後開拓者が入植していた茨城県東茨城郡小川町百里原に航空自衛隊の基地を建設する計画を立て、昭和三一年五月、その用地の取得につき小川町の当時の町長幡谷仙三郎らの協力のもとにその準備を始めたところ、地元に基地建設の反対運動が起こり、開拓農民や町民の間に反対運動の団体が組織され、リコール運動が展開され、選挙の結果、昭和三二年四月基地反対派の指導者であった上告人山西が町長に当選した。被上告人国は、防衛庁東京建設部の係官を現地に派遣し、土地所有者らと折衝を重ねて次々と売買契約を成立させ、昭和三三年三月ころには大部分の用地の買受けを終了した。

原判決添付第三目録一ないし四記載の土地(以下これらの土地を個別にいうときには「本件一の土地」、「本件二の土地」などといい、一括していうときには「本件土地」という。)は、基地を建設するのに不可欠な場所に存在し、これを所有していた被上告人藤岡は、当初基地の建設に反対し基地反対派に所属していたが、次第に反対運動に疑問を抱くようになり、昭和三三年五月には、本件土地を処分して他に移転したいと考え、防衛庁東京建設部の係官の買収交渉に応ずるようになった。

2  これに対し、上告人山西を中心とする基地反対派の者たちは、反対運動の一環として基地の建設に不可欠な土地を買い取る考えのもとに、被上告人藤岡との間で本件土地につき買取交渉を進めた結果、昭和三三年五月一八日、同被上告人からこれを買い取ることで交渉が成立し、上告人山西の使用人で農業を営む上告人石塚を買主として、代金三〇六万円、代金支払の時期を、本件一の土地(宅地)につき所有権移転登記を経由し、かつ、本件二ないし四の土地につき農地法所定の許可を停止条件とする所有権移転の仮登記を経由した時期とする約定で売買するとの契約を締結し、翌一九日、右売買契約に基づいて、本件一の土地につき同日付売買を原因とする所有権移転登記を、本件二ないし四の土地につき同日付停止条件付売買を原因とする停止条件付所有権移転の仮登記をそれぞれ経由した。

ところが、上告人石塚は、契約締結時に手附一〇万円及び右各登記を経由した日に一〇〇万円の合計一一〇万円を支払ったのみで、残代金一九六万円を支払わなかった。そこで、被上告人藤岡は、上告人石塚に対し同年六月一三日到達の内容証明郵便をもって残代金一九六万円を右到達の日から一〇日以内に支払うように催告し、支払わないときは右期間の経過とともに右売買契約を解除する旨の停止条件付契約解除の意思表示をした。しかるところ、上告人石塚の代理人である外山佳昌弁護士らは、右期間の最終日である同月二三日午後三時ころ、被上告人藤岡方を訪れ、同被上告人に対し右残代金一九六万円を額面金額とする小切手を提供し、執拗に残代金として右小切手を受領するよう迫り、その結果、同被上告人はやむなくこれを残代金支払の方法として受け取ったが、右小切手は翌二四日預金不足の理由で不渡りになった。

3  このため、被上告人藤岡は、同日のうちに防衛庁東京建設部建設部長池口凌(支出担当官)との間で売買交渉を再開し、翌二五日被上告人国に対し本件土地を代金二七〇万円(離作補償費等を含む。)で売り渡す旨の契約(以下「本件売買契約」という。)を締結し、同被上告人に対し、本件二及び三の土地については同年七月一日、本件四の土地については同年一二月二六日、それぞれ本件売買契約に基づく所有権移転登記を経由した。そして、被上告人藤岡は、同年六月二六日上告人石塚を債務者として本件一の土地について売買契約の解除を理由として処分禁止の仮処分を得て、同日のうちにその旨の登記を経由した(以下本件売買契約とこれに先行して行われた被上告人藤岡の上告人石塚に対する売買契約解除の意思表示を併せて「本件土地取得行為」ということがある。)。

4  上告人山西は、もともと本件土地の実質的な買主であり、したがって、被上告人藤岡が上告人石塚に対し本件土地についてした売買契約を解除して被上告人国との間で本件売買契約をし、右解除及び本件売買契約の効力をめぐって本件訴訟で争われているなどの一切の事情を知悉した上で、原審係属中の昭和五四年一月六日上告人石塚から本件土地を買い受ける旨の契約を締結し、かつ、同年二月五日右売買契約に基づき本件一の土地について所有権移転登記を、本件二ないし四の土地については前記仮登記につき権利移転の附記登記を受けた。

二論旨は、憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」とは国の行うすべての行為を意味するのであって、国が行う行為であれば、私法上の行為もこれに含まれ、したがって、被上告人国がした本件売買契約も国務に関する行為に該当するから、本件売買契約は憲法九条(前文を含む。以下同じ。)の条規に反する国務に関する行為としてその効力を有しない、というのである。

しかしながら、憲法九八条一項は、憲法が国の最高法規であること、すなわち、憲法が成文法の国法形式として最も強い形式的効力を有し、憲法に違反するその余の法形式の全部又は一部はその違反する限度において法規範としての本来の効力を有しないことを定めた規定であるから、同条項にいう「国務に関するその他の行為」とは、同条項に列挙された法律、命令、詔勅と同一の性質を有する国の行為、言い換えれば、公権力を行使して法規範を定立する国の行為を意味し、したがって、行政処分、裁判などの国の行為は、個別的・具体的ながらも公権力を行使して法規範を定立する行為であるから、かかる法規範を定立する限りにおいて国務に関する行為に該当するものというべきであるが、国の行為であっても、私人と対等の立場で行う国の行為は、右のような法規範の定立を伴わないから、憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」に該当しないものと解すべきである。以上のように解すべきことは、最高裁昭和二二年(れ)第一八八号同二三年七月七日大法廷判決・刑集二巻八号八〇一頁の趣旨に徴して明らかである。そして、原審の適法に確定した事実関係のもとでは、本件売買契約は、国が行った行為ではあるが、私人と対等の立場で行った私法上の行為であり、右のような法規範の定立を伴わないことが明らかであるから、憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」には該当しないものというべきである。これと同旨に帰する原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違憲はなく、論旨は、以上と異なる見解又は原審の認定にそわない事実に基づいて原判決を論難するものであって、採用することができない。

同第二点の二の(一)及び(二)について

論旨は、本件売買契約は、被上告人国がこれをするについての準拠法規である防衛庁設置法及びその関連法令が憲法九条に違反して無効であるから、準拠法規を欠くことになり無効である、というのである。

しかしながら、被上告人国が被上告人藤岡との間で締結した本件売買契約は、国がその活動上生ずる個別的な需要を賄うためにした私法上の契約であるから、私法上の契約の効力発生の要件としては、国がその一方の当事者であっても、一般の私法上の効力発生要件のほかには、なんらの準拠法規を要しないことは明らかであり、したがって、本件売買契約の私法上の効力の有無を判断するについては、防衛庁設置法及びその関連法令について違憲審査をすることを要するものではない。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、これと異なる見解又は原審の認定にそわない事実に基づいて原判決を論難するものであって、採用することができない。

同第二点の二の(三)について

論旨は、被上告人国の代理人として本件売買契約を締結した池口凌は、組織規範である防衛庁設置法及びその関連法令が憲法九条に違反して無効であることによって、被上告人国の支出担当官としての職務権限を欠くことになるから、本件売買契約は、結局無権限者のした行為として私法上無効である、というのである。

しかしながら、売買契約の当事者本人が、現にその契約締結行為を行った者の代理権限の存在を認めている場合には、第三者が、右契約が無権限者のした行為であると主張してその契約の効力を争うことはできないというべきところ、本件訴訟において、被上告人国は、池口凌が被上告人国の代理人としてした本件売買契約が本人である被上告人国と相手方である被上告人藤岡との間で有効に成立したと主張しているのであるから、第三者である上告人らは、右理由による無効を主張することはできず、したがって、池口凌が本件売買契約の締結当時必要な職務権限を有していたか否かについて判断する必要はない。これと結論を同じくする原審の判断は首肯することができる。論旨は、これと異なる見解に立って原判決を論難するか、又は判決の結論に影響のない原判決の説示部分の違法をいうものであって、採用することができない。

同第三点について

論旨は、本件売買契約は国がその一方当事者として関与した行為であるから、私人間で行われた私法上の行為と同視すべきものではないが、仮に私人間で行われた私法上の行為と同視しうるものであるとしても、憲法の保障する平和主義ないし平和的生存権に違反し、かつ、憲法九条が直接適用され、これに違反する、というのである。

しかしながら、上告人らが平和主義ないし平和的生存権として主張する平和とは、理念ないし目的としての抽象的概念であって、それ自体が独立して、具体的訴訟において私法上の行為の効力の判断基準になるものとはいえず、また、憲法九条は、その憲法規範として有する性格上、私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではなく、人権規定と同様、私法上の行為に対しては直接適用されるものではないと解するのが相当であり、国が一方当事者として関与した行為であっても、たとえば、行政活動上必要となる物品を調達する契約、公共施設に必要な土地の取得又は国有財産の売払いのためにする契約などのように、国が行政の主体としてでなく私人と対等の立場に立って、私人との間で個々的に締結する私法上の契約は、当該契約がその成立の経緯及び内容において実質的にみて公権力の発動たる行為となんら変わりがないといえるような特段の事情のない限り、憲法九条の直接適用を受けず、私人間の利害関係の公平な調整を目的とする私法の適用を受けるにすぎないものと解するのが相当である。以上のように解すべきことは、最高裁昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁の趣旨に徴して明らかである。

これを本件についてみると、まず、本件土地取得行為のうち被上告人藤岡が上告人石塚に対してした契約解除の意思表示については、私人間でされた純粋な私法上の行為で、被上告人国がなんら関与していない行為であり、しかも、被上告人藤岡は、上告人石塚が売買残代金を支払わないことから、上告人石塚との間の売買契約を解除する旨の意思表示をするに至ったものであり、かつ、被上告人国とは右解除の効果が生じた後に本件売買契約を締結したというのであるから、被上告人藤岡のした売買契約解除の意思表示は、被上告人国が本件売買契約を締結するについて有していた自衛隊基地の建設という目的とは直接かかわり合いのないものであり、したがって、憲法九条が直接適用される余地はないものというべきである。

次に、被上告人藤岡と被上告人国との間で締結された本件売買契約について憲法九条の直接適用の有無を検討することにする。原審の確定した前記事実関係によれば、本件売買契約は、行為の形式をみると、私法上の契約として行われており、また、行為の実質をみても、被上告人国が基地予定地内の土地所有者らを相手方とし、なんら公権力を行使することなく純粋に私人と対等の立場に立って、個別的な事情を踏まえて交渉を重ねた結果締結された一連の売買契約の一つであって、右に説示したような特段の事情は認められず、したがって、本件売買契約は、私的自治の原則に則って成立した純粋な財産上の取引であるということができ、本件売買契約に憲法九条が直接適用される余地はないものというべく、これと同趣旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違憲はなく、論旨は、以上と異なる見解又は原審の認定にそわない事実に基づいて原判決を論難するものであって、採用することができない。

同第四点について

論旨は、憲法九条の規定ないし平和的生存権の保障が私法上の行為である本件売買契約に直接適用されないとしても、右規定等は民法九〇条の定める公序の内容を形成し、右規定等に違反する本件売買契約を含む本件土地取得行為は、結局公序良俗違反として無効である、というのである。

本件売買契約は、前述のように、被上告人国が自衛隊基地の建設を目的ないし動機として締結した契約であって、同被上告人は被上告人藤岡に対しこの契約を締結するに当たって右の目的ないし動機を表示していることは明らかであるから、右の目的ないし動機は本件売買契約等が公序良俗違反となるか否かを決するについて考慮されるべき事項であるということができるので、以下自衛隊基地の建設という目的ないし動機によって、本件売買契約等が公序良俗違反として無効となるか否かについて判断する。

まず、憲法九条は、人権規定と同様、国の基本的な法秩序を宣示した規定であるから、憲法より下位の法形式によるすべての法規の解釈適用に当たって、その指導原理となりうるものであることはいうまでもないが、憲法九条は、前判示のように私法上の行為の効力を直接規律することを目的とした規定ではないから、自衛隊基地の建設という目的ないし動機が直接憲法九条の趣旨に適合するか否かを判断することによって、本件売買契約が公序良俗違反として無効となるか否かを決すべきではないのであって、自衛隊基地の建設を目的ないし動機として締結された本件売買契約を全体的に観察して私法的な価値秩序のもとにおいてその効力を否定すべきほどの反社会性を有するか否かを判断することによって、初めて公序良俗違反として無効となるか否かを決することができるものといわなければならない。すなわち、憲法九条の宣明する国際平和主義、戦争の放棄、戦力の不保持などの国家の統治活動に対する規範は、私法的な価値秩序とは本来関係のない優れて公法的な性格を有する規範であるから、私法的な価値秩序において、右規範がそのままの内容で民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容を形成し、それに反する私法上の行為の効力を一律に否定する法的作用を営むということはないのであって、右の規範は、私法的な価値秩序のもとで確立された私的自治の原則、契約における信義則、取引の安全等の私法上の規範によって相対化され、民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容の一部を形成するのであり、したがって私法的な価値秩序のもとにおいて、社会的に許容されない反社会的な行為であるとの認識が、社会の一般的な観念として確立しているか否かが、私法上の行為の効力の有無を判断する基準になるものというべきである。

そこで、自衛隊基地の建設という目的ないし動機が右に述べた意義及び程度において反社会性を有するか否かについて判断するに、自衛隊法及び防衛庁設置法は、昭和二九年六月憲法九条の有する意義及び内容について自衛のための措置やそのための実力組織の保持は禁止されないとの解釈のもとで制定された法律であって、自衛隊は、右のような法律に基づいて設置された組織であるところ、本件売買契約が締結された昭和三三年当時、私法的な価値秩序のもとにおいては、自衛隊のために国と私人との間で、売買契約その他の私法上の契約を締結することは、社会的に許容されない反社会的な行為であるとの認識が、社会の一般的な観念として確立していたということはできない。したがって、自衛隊の基地建設を目的ないし動機として締結された本件売買契約が、その私法上の契約としての効力を否定されるような行為であったとはいえない。また、上告人らが平和主義ないし平和的生存権として主張する平和とは理念ないし目的としての抽象的概念であるから、憲法九条をはなれてこれとは別に、民法九〇条にいう「公ノ秩序」の内容の一部を形成することはなく、したがって私法上の行為の効力の判断基準とはならないものというべきである。

そうすると、本件売買契約を含む本件土地取得行為が公序良俗違反にはならないとした原審の判断は、是認することができる。論旨は、これと異なる見解に立って原判決を論難するか、又は原判決の認定にそわない事実に基づいてその違法をいうものであって、採用することができない。

よって、民訴法三九六条、三八四条一項、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

本件は、その訴訟の対象が土地の売買契約の効力の有無という私法上の問題でありながら、買主たる国が当該土地を自衛隊の建設という目的で取得したものであるところから、憲法前文及び九条をめぐっての論点が提起された訴訟である。私は、法廷意見の判示するところに異論がないが、事件の性質に鑑み、憲法上の論点を含め、若干の点について補足をしておくこととしたい。

一  論旨(上告理由第二点の一)は、原判決が国の行った私法上の行為である本件土地の売買契約は憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」に当たらないとした判断を誤りとするものであり、ここで憲法の右条項の解釈が問題となる。

(1)  「国務に関するその他の行為」という表現は、その意味が必ずしも明確とはいえないが、憲法九八条一項の文理、それが最高法規と題する章におかれていることからみて、法廷意見の説示するとおり、憲法が成文法の国法形式として最も強い形式的効力を有するという実定成文法体系において憲法が最高の法規であるとの法意が示されていると解されるから、そこでいう「国務に関するその他の行為」は、例示される法律、命令、詔勅のように法規範として国の実定法秩序の一環をなすものを定立する行為を意味し、およそ国の行う行為のすべてを意味するものではないというべきである。そうであるとすると、行政処分や裁判は具体的な国の行為であるから、それに含まれないと解する余地があるが、当裁判所は、それらが国務に関する行為に該当することを承認している(最高裁昭和二二年(ル)第一八八号同二三年七月七日大法廷判決・刑集一二巻八号八〇一頁)。これは、行政処分や裁判のように具体的な事案に対する国の行為は、当該事案に対する措置という個別的な側面とともに、それを通じて法規範の定立という意味をもつものであり、そこでこれらも国の法体系の段階構造のうちの最下位にあるとはいえ、実定法秩序の一環をなすものとしての位置づけをもちうるのであって、その限りで国務に関する行為に当たると解するのである。このように考えると、本件売買契約のような国の私法上の行為は、右のような意味での法規範の定立を伴うものではなく、憲法九八条一項にいう「国務に関するその他の行為」に該当するものとは解されず、原判決に所論の違法はないというべきである。なお、最高裁昭和四九年(行ツ)第七五号同五一年四月一四日大法廷判決・民集三〇巻三号二二三頁は、その判示のうちに、右条項にいう国務に関する行為を「国権行為」と表示している。その意味は必ずしも明確ではないが少なくともそれが国の私法上の行為を含まないと解していることは明らかである。

(2)  右のように右条項が法規範の定立行為をとらえて憲法の最高法規性を意味しているものとすれば、そこで法律その他が「効力を有しない」ということもそれらが違憲の限度で法規範としての本来の効力を有しないとするものと解される。例えば行政処分が憲法に反するということによりつねに絶対的に無効となるのではなく、行政処分は重大かつ明白な瑕疵がある場合に無効となるとされるが、憲法に反することは重大な瑕疵があるといっても、つねに明白な瑕疵とはいえず、憲法の解釈いかんによって違憲かどうかがきめられることが少なくないのであって、具体的な行政処分は、違憲であっても、当然無効の場合もあれば、当事者の主張によって取り消される場合、相対的な無効の場合もありうると解される。裁判についても同様であり、ここではいっそう当然無効とされる場合は少なく、法定の手続にそって裁判の効力が失わしめられるにとどまると考えられる。法廷意見が「法規範として本来の効力を有しない」というのは、このように違憲が直ちに当然無効とならないことを示すものであり、国務に関する行為が行政処分や裁判のような具体的な法規範定立行為を含むと解する以上、効力を有しないという規定を右のように解するのが相当である。なお、右にあげた昭和五一年四月一四日大法廷判決も、九八条一項を引用しつつ、憲法に反する国権行為がつねに当然無効となるという考え方を否定していることも参照されてよいであろう。

二  右のように考えると憲法九八条一項の規定は国の私法上の行為に及ばないと解されるが、このことは、国の行う私法上の行為のすべてが、私人の行為と同じであり、憲法の直接的規律を受けないということではない。憲法的規律がどこまで及ぶかは、憲法九八条一項に関する問題ではなく、憲法という法規の性質からみてその射程範囲がどこまでか、その名宛人はなんびとかという問題である。この観点からは、私人間の私法上の行為であっても、憲法の規律が直接に及ぶと解することも可能であるし(いわゆる憲法の第三者効力の問題であるが、最高裁昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁は、憲法一四条、一九条についてこれを消極に解している)、また国が主体でなくとも、私人を主体とする行為も一定の条件のもとに国の行為とみなして、その私法上の行為について憲法の適用を認めることもありうる(いわゆる「ステート・アクションの法理」参照)。同様に国の私法上の行為も憲法の直接の規律を受けることがありうるのである。当裁判所は地方公共団体が地鎮祭のための神官への報酬などの費用を支出したことの憲法適合性を審査しているが(最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁)、この支出行為は私法的な行為に基づくものとみられるから、右の趣旨を前提としているものと解することができる。そして、私見によれば、国の行為は、たとえそれが私法上の行為であっても、少なくとも一定の行政目的の達成を直接的に目的とするものであるときには、それ以外にどこまで及ぶかどうかはともかくとして、私法上の行為であることを理由として憲法上の拘束を免れることができない場合もありうるものと思われる。

しかし、右のような憲法の射程範囲を考える場合にみのがしてはならないことは、私法上の行為が憲法の規定に反するという瑕疵をもつ場合にも、直ちにその私法的効力が否定されるわけでないことである。もとより国の行為が憲法に反する以上はその効力を否定する要請が働くけれども、他方で、私法上の行為であるから私的自治の原則が認められ、私法上の行為によって生ずる私人の権利や利益が私人の予期しない事由によって損なわれることがないように配慮する必要があり、このような取引の安全保護の見地からは、私法上の効力を肯定する要請が働くことになる。このような点を較量しながら私法上の行為について判断することとなる。

三  憲法の諸規定は、憲法の性質上、原則として私法上の行為に直接の適用がないとしてもすべての憲法規範がそうであるとはいえず、その規定のうちには私人間で行われた私法上の行為であっても直接に拘束を及ぼすものがあると考えてよい。例えば、奴隷的拘束を受けない自由(一八条前段)や勤労者の基本権(二八条)は、それらの規定に反する私的な行為は民法九〇条の公序違反としてその効力を否定する考えもとれなくはないが、むしろ現代社会においては人を奴隷的拘束におく私人間の契約や、勤労者の団結権などの基本権を違法に制限する私的な行為は、直接に憲法に反すると判断してよいと思われる。もしそうであれば、これらは、国の私法的行為についても当然に妥当するであろう。

それでは憲法九条は、所論(上告理由第三点)のように私的行為に対して直接適用される規定と解釈すべきであるか。同条は、日本国憲法の基盤をなす平和主義の原理を正文のなかの一箇条として規範化したものであり、きわめて重要な規定であることはいうまでもないが、それは、国の統治機構ないし統治活動についての基本的政策を明らかにしたものであって、国民の私法上の権利義務と直接に関係するものとはいえない。所論は、憲法前文及び九条の規定から平和的生存権を保障するとの解釈を抽出して、その侵害をいうが、平和的生存権をいうものの意味内容は明確ではなく、それが具体的請求権として、あるいは訴訟における違法性の判断基準として、裁判において直接に国の私法上の行為を規律する性質をもつものではないと解するのが相当である。また所論は、自由権や平等権の諸規定は間接適用されるものであるとしても、憲法九条はその法意や位置づけからみてそれらの人権規定と異なって直接に適用されるというが、私見によれば、そのような考え方はとるべきでなく、前述の昭和四八年一二月一二日の当裁判所の判例の判示するように憲法第三章の基本的人権の保障のような個人の権利自由にかかわる諸規定が間接適用にとどまるものとすれば、その趣旨からいって、憲法九条が裁判規範たる性質をもつものであるとしても、統治活動にかかわる同条は、もとより国と国民との間の私法上の行為に直接に適用されるに由ないものというほかはない。

四  本件土地の売買契約に対して憲法九条の直接の適用がないとしても、同条の規定は民法九〇条にいう公序をなし憲法九条に違反した動機目的によって締結された本件契約は公序違反として私法上無効であるという論旨(上告理由第四点)については、法廷意見の述べるところにとくに附加するところはないが、若干の私見を述べておきたい。

(1)  憲法は国の基本的秩序を定めているものであるから、それは当然に民法九〇条にいう公序の一部をなすものといえる。当裁判所が私的な会社における男女の定年について五年の格差のあることを公序に反すると判示しているが(最高裁昭和五四年(オ)第七五〇号同五六年三月二四日第三小法廷判決・民集三五巻二号三〇〇頁)、そこに憲法一四条一項が引用されていることからみても、憲法の規律するところが民法上の公序をなすことを示唆しているものと思われる。憲法九条の規定は統治機構、統治活動に向けられた政治的色彩の濃い規範であるとしても、それがために公序と関係がないとはいえず、むしろ憲法秩序として重要なものであるから社会の公序を形成しているといえるであろう。

しかし、法廷意見も説示するように、私法的な価値秩序と直接の関係のない憲法規範は、そのままの内容で私法上の秩序のなかに移されて、これに反する私法上の行為を直ちに無効とするものではないと解すべきであり、すでに憲法の射程範囲について論じたところと同様に、ここでも憲法上の規律は、私法上の価値秩序との相関関係において相対化され、そのうえで民法九〇条のもとでの私法上の効力の存否を判断しなければならないことになる。とくに憲法九条のような統治機構や統治活動に密着するきわめて公法的性格の強い規範の場合にそう考えるべきである。

(2)  右の観点にたってみるとき、本件土地の売買契約は、民法九〇条の公序違反として私法上の効力を否定するだけの反社会性をもつ行為といえるか。本件契約の目的動機として自衛隊基地の建設ということが表示されているが、これが私法的な価値秩序のもとでどのような反社会性をもつかは、憲法九条の規定について互いに対立して存在する複数の解釈のうちのいずれが正当なものかを決したうえですべき判断とは必ずしもいえないのであって、同条の解釈について国民各層にどのような解釈が存しているかという社会的状況、自衛隊が現実に存在していること及びその活動に対する社会一般の認識などの実情に即してえられるところの社会通念に照らして、私法的な価値秩序のもとでその効力を否定されるだけの反社会性を有するかどうかで判断されるべきものであると考えられる。もとよりこのことは、憲法が国の基本構造を形成していることからみて、裁判所の判断が社会の実情にそのまま依存し追従すべきであるというのではないが、このような憲法的規律を考慮に容れてもなお、本件契約が民法九〇条に違反しないとした法廷意見の理由づけは正当であるというべきである。

(裁判長裁判官伊藤正己 裁判官安岡滿彦 裁判官坂上壽夫)

上告代理人尾崎陞、同風早八十二、同新井章、同荒井誠一郎、同池田眞規、同岩崎修、同榎本信行、同大森典子、同川村俊紀、同金城睦、同加藤文也、同木村晋介、同古波倉正偉、同佐藤文彦、同佐藤太勝、同四位直毅、同椎名麻紗枝、同田村徹、同内藤功、同内藤雅義、同西山明行、同根本孔衛、同彦坂敏尚、同船尾徹、同松井康浩、同三津橋彬、同水野邦夫、同宮里邦雄、同矢田部理、同山下登司夫の上告理由

総論〈省略〉

第一点 原判決には契約をめぐる判断につき、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背及び、理由不備、齟齬の違法があり破棄を免れない。

一、原判決は、石塚力と藤岡博間の本件土地売買契約における残代金一九六万円の支払時期を畑二筆及び原野の仮登記完了時である旨判断するが、右判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背及び理由不備、齟齬があり、破棄を免れない。

(一) 第一審、原審を通じて代金の支払時期に関して一番強く争われたのは乙第三号証(誓約書)の意義とその記載の趣旨である。

乙第三号証には次のような記載がある。

右土地(原野――上告代理人注)は昭和三五年九月一日に到らざれば所有権移転の登記は施行出来ざるも代金の支払に関しては他一般の不動産移転の登記完了の際御支払申上可誓約書を差し入れます。

昭和参拾参年五月十八日

右 石塚 力

藤岡 博殿

この記載中の代金支払時期にかかわる部分、即ち「他一般の不動産移転の登記完了」の登記完了とは何を意味するのかという記載の趣旨の問題と、乙第三号証が代金支払時期をめぐる当事者の意思表示にどのような意味をもつかという書面の意義の問題の二点が第一審以来争点となっていたのである。

この点について、被上告人らは第一審では「被告石塚作成名義の乙第三号証(誓約書)によれば、残代金の支払時期が本登記完了時であるかの如き記載がなされているが、これは契約時の両当事者の合意によって作成されたものではなく、その文面から明らかなとおり、被告側で一方的に作ったものであって、原告藤岡は同号証の記載事項は、契約書の約定と異なるとして五月二〇日訴外山西きよに対してその旨指摘し、かかる記載事項には絶対応じられない旨明言しているところである。」と主張していた。つまり、被上告人らは乙第三号証中の「他一般の不動産移転の登記完了」の登記とは本登記である旨の趣旨であることを認め、この点については当事者間に争わなかったのである。そして被上告人らは、ただ乙第三号証は、石塚において一方的に差入れたものだから、乙第三号証記載の趣旨どおりの合意が成立していないという乙第三号証の意義の面で争っていただけなのである。

しかし、土地売買においては、本登記完了時が代金支払の履行期であることが原則なのであり、これより以前に代金を支払うというのは、買主である石塚側にとってこそ不利な約定なのである。従って、仮に乙第三号証が石塚が一方的に差入れたものであるとしても、石塚において乙第三号証の「他一般の不動産移転の登記完了の際御支払」の登記が仮登記であると表示して差し入れたものであると認められない限り、少なくとも、積極的には、仮登記完了の際代金を支払う旨の特約が成立したとは認められない。つまり、被上告人らが主張していたように積極的な合意の有無は問題ではなく、乙第三号証の記載の趣旨だけが問題なのである。ところが前述したように書面の趣旨――石塚がどこまで原則から譲る意思表示をなしたか――については当事者間に争わなかったのであるから、裁判所としては、これを前提とした判断をなすべきであったのである。しかるに原判決はこれを前提とすることなく、「ここにいう『他一般の不動産移転の登記』とは本件一の土地(宅地)については所有権移転の本登記を、二及び三の土地(いずれも畑)については停止条件付所有権移転の仮登記を指称するものと解するのが相当であり、控訴人らの主張のごとく、右誓約書の作成が単に時間的に売買契約書の作成時よりも後であるという一事をもって、右認定の妨げとすることは許されない。」と判示した。このような判示は明らかに訴訟手続の法令に違背するのみでなく、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない。

(二) のみならず、原判決は次の点で理由不備、理由齟齬の違法があり破棄を免れない。

原判決は乙第三号証が作成された経過につき、次のとおり判示する。

「さきに、関係者の間では本登記ができるものと考えていた本件四の土地(原野)が、昭和二七年九月一日国から売渡しを受けた未懇地であるため、右売渡しの時から起算して八年後の昭和三五年九月一日までは農地法七三条所定の許可がなければ所有権移転の本登記のできないことが判明し、急遽登記申請書を訂正して仮登記を経由した事実があったところより、その場で、右被控訴人(藤岡博――弁護人注)から、本件四の土地(原野)に見合う残代金の支払時期を本登記完了の時とすれば、その部分の代金の支払いが昭和三五年九月一日以降と、前記契約の趣旨に反する結果となるので、この点善処されたい旨の申出があったところから、控訴参加人は、前日一八日付で、本件四の土地(原野)の『代金の支払に関しては他一般の不動産移転の登記完了の際に御支払申上可』と記載した控訴人名義の誓約書(甲第三号証、乙第三号証も同一文書である。)を作成し、それを同被控訴人に交付した。

即ち、乙第三号証が作成されるまでは少なくとも原野については、本登記がなされることが、当事者の合意であった旨認定しているのである。

ところが、甲第二号証(契約書)によると、原野を含めて、「右不動産は知事の許可があったとき所有権が移転するものとし買主に引渡しする但し農地法第三条の許可有るまで買主に停止条件附所有権移転の仮登記すること」と記載されており、しかもこれが、乙第三号証の作成前に作成されていることを原判決も認めている。してみれば、甲第二号証は「前記契約の趣旨」(前記傍点部分)に当らないはずである。

ところが、原判決は、残代金支払時期の結論部分において「残代金の支払時期は、前記契約書記載のとおり、本件二ないし四の土地(畑及び原野)について農地法所定の許可を停止条件とする所有権移転の仮登記が完了した時である、と認めるべきである」と判示する。

これは明らかに理由不備、齟齬と言わなければならない。従って原判決は破棄を免れない。

(三) 更に原判決は以下の点において、代金支払時期をめぐる認定につき採証法則に違反した判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背があり、この点でも原判決は破棄を免れない。

1 まず、原判決は、以下の点を掲げて残代金一九六万円の支払時期を畑及び原野の停止条件付所有権移転の仮登記完了時であると認定するが、これらの認定はいずれも採証法則を誤ったものである。

(1)売買契約書(甲第二号証)に、「売渡代金は仮登記完了と同時に支払う」と記載されていて、そこに記載された「仮登記」が控訴人ら主張のように「本登記」の誤記であると認めるに足る的確な証拠がないこと、(2)藤岡は、売買代金をも含めて売買条件が国へ売渡す場合よりも不利であるとすれば、同人としては、右売買契約には応じなかったものと推認されるが、国が農地を買受ける場合には、売買代金は成立後間もなく支払われるのが通例であり、かような事情は近隣地主らの実例等から知悉していたものと認められるのに反し、石塚との売買では、農地法所定の許可が得られるか不確定であるから、上告人ら主張の如く、残代金の支払時期を畑及び原野についての本登記完了の時とした場合、代替地を購入することは著しく困難となり、右契約は買主側が売主側の希望をすべて受け入れることによって成立したという経緯から言って、藤岡がかかる不利益を甘受したものとは到底考えられないこと、(3)その後も、催告に対して、残代金支払時期が本登記完了時だとの主張がなされていないこと――以上の三点である。

まず(1)の点であるが、原判決は、甲第二号証の「仮登記」が「本登記」の誤記であるとの的確な証拠がない旨判示するが、前記(二)で述べたことからも明らかなように、原野については少なくとも本登記の誤記であったことは判文上からも明らかである。そして更に、山西きよの原審供述(更には被上告人らの主張中にも見受けられる)によって明らかにされた名義保全契約――引渡及び所有権移転の本登記をしないという意味で全く目的を本契約と異にする――の契約書の流用という点を全く見落しているのである。そして、この名義保全契約ヒナ型の流用こそが、甲第二号証の全体としての不自然性、誤記の多さ、更に藤岡が全く甲第二号証に留意していないこと等を解き明かす鍵なのである。従って、そもそも甲第二号証を履行期解釈の標準として持ち出すこと自体採証法則を誤ったものと言わなければならない。

次に(2)の点である。まず、国との売買については、売買代金が契約成立後間もなく支払われるのが通例で、藤岡もかような事情は近隣地主らの実例等から知悉していたとの判示は、全く証拠に基づかないものと言わなければならない。むしろ藤岡は、移転補償は建物を立退かなければ支払われないこと(井手忠司三七丁)離作補償は離作しなければ支払われないこと(第一審池口凌)等、補償がすぐ降りないことを知っていたのである(藤岡博原審七丁、二三丁、六四丁)。原判決は何を根拠に右のような事実を認定していたのか理解に苦しむものである。他方、原判決は石塚との売買については、本登記がいつなしうるか不確定で、代替地購入が著しく困難となる旨認定するけれども、山西は契約締結前の段階から契約は契約として、これとは別に代替地取得のため資金が必要なときは、これを融通する旨述べているのであって、山西の資力、地位、藤岡との信頼関係から言うならば、この発言を藤岡が信頼するのは当然であって、原判決の認定のように、「仮登記でなければ本登記」というような二者択一的な問題ではなかったのである。そして、そもそも代替地購入の点については、上告人らが藤岡が代替地の早期購入の目途があるとは全く予想(石塚と契約した場合、防衛庁による代替地の斡旋が御破算になるのは言うまでもない。)していないところなのであって、支払時期について、上告人らが直ちに全額を支払わなければならないという合意をして藤岡を説得するという必然性は全くないのである。従って、これまた証拠評価を根本的に誤ったものと言わなければならない。

更に(3)の点である。この点についても、前述したところからの流れ、即ち、契約当初から山西が藤岡に対し、本登記前でも代替地購入ないしは、土地の明渡の場合には、資金融通に応じても良いと述べて来たことを全く無視し、被上告人側の証言にすらこれらの留保――即ち無条件ではなく明渡ないし代替地購入という条件がついていること――があることを無視したものであり、これまた採証法則を誤ったものと言わなければならない。

2 それ以上の問題は、乙第三号証の認定及び履行期をめぐる認定の仕方である。

即ち、第一に乙第三号証については、藤岡が履行期を本登記時であると考えていた直接の証拠が存在するのである。

まず、被上告人らがその証言の信用性を強調した藤岡二郎証言である。同証人は、昭和三三年五月一九日の夜のことについて、二郎が「ひろげ何で売った金はどうした」と博に尋ねたところ、博は「金は登記をひけば現金を渡すんだから、百万は無用心だから預けて行けというから銀行員呼んで預けた」(第一審五八四六丁)と証言しているのであり、又、藤岡末吉は「兄は『百万だけ貰ってあとは本登記が済んでから』と言う旨を明言している。他方、これに対して乙第三号証の趣旨が、本登記時に支払うとの約定ではないとする証拠は僅かに藤岡由松の証言――それも極めて自信のないもの――があるだけである。

そして更に、本登記時に残代金を支払う旨山西が理解していたと認めるに足る客観的証拠(乙第二九六号証)も存在するのである。

これらを全く無視し、しかも前述のとおり採証法則を誤った間接事実を並べて、これらの証拠から導かれる結論を否定した原判決は根本的に採証法則を誤ったものと言わなければならない。

二、原判決には信義則違反・権利濫用の抗弁に関し判断遺脱、理由齟齬、理由不備の違法があり、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄されるべきである。

(一) 原判決の判示

原判決は、理由「六信義則違反・権利濫用の抗弁について」の項で、藤岡の契約解除の意思表示が自己固有の利益を守るためでなく、本件土地を国に取得させることによって基地反対運動に打撃を与えることのみを目的としてなされたものであるから、信義則に違反し、権利の濫用であって、その全部又は一部が無効であるという主張について次のように判示する。

まず、全証拠をもってしても右の目的をもってなされたことを肯認するに足りないとし、かえって停止条件付契約解除の意思表示が国への売買契約より、一二日も前になされていること、六月二三日には残代金として小切手を現金同様のものと信じて受領したこと、藤岡は数次にわたり残代金の支払方を催促したが応じなかった上、小切手が不渡となったこと、土地を国に売れば、代金は若干減少しても支払が確実であり、代替地の斡旋も確実で、全体として有利であると考えたことをあげ、国へ売ることによって基地反対運動が打撃を蒙る等、被控訴人ら主張のごとき事情があったとしても、信義則ないし権利濫用に当らないと判示している。

しかし、原判決の事実摘示によっても、信義則違反・権利濫用の主張は契約解除の目的が基地反対運動に打撃を与えることのみを目的としてなされたものであることに限定してはいない。

さらに、事実摘示そのものに、石塚・山西の主張につき遺脱がある。

(二) 信義則違反・権利濫用に関する原審における石塚・山西らの主張

石塚力および山西きよの原審における主張は次のとおりであった。

1 本件売買契約並びに契約解除をめぐる事実関係

(1) 昭和三〇年、防衛庁は百里を航空自衛隊ジェット戦闘機基地とする計画を明らかにすると、いち早く現地では昭和三一年八月百里基地反対期成同盟、間もなく小川町では愛町同志会が結成され基地反対の運動をすゝめた。他方防衛庁は昭和三一年第一次計画として五六万坪の基地予定地の買収をすゝめた。昭和三二年には基地誘致派の幡谷仙三郎町長をリコールする運動が高まり、選挙の結果、基地反対を主張する山西きよが町長に当選した。反対同盟は現地に見張小屋を建て、農民が泊りこんで基地建設のための資材の搬入を監視した。

昭和三二年九月、防衛庁は用地の一部に建設工事用の仮設道路をつくり、同月二五日には建設機材であるブルドーザーやローラーなど仮設道路を通って基地予定地内に搬入しようとした。これに対し、基地反対の農民や町民がこれを阻止しようとしたところ、百名余の警察官が農民におそいかかり、実力で排除した。

昭和三三年四月には、建設資材の持込みを警戒中の農民にたいし、建設関係者が暴言を吐いた。これに抗議した際生じた混乱を口実に警察は多くに反対同盟員を取調べ、証人川井弘喜を含む農民七名を逮捕勾留した。

昭和三三年五月一八日の払暁、当局はまたまた多数の警察官とともに基地建設に反対する農民の抵抗を排除し、建設資材を搬入した。これら農民の抵抗の行動には藤岡も反対農民の一人として五月一八日をのぞき参加していた。五月一八日の抵抗も、結果としては搬入を許す結果となった。反対期成同盟、愛町同志会、山西町長、支援団体は、防衛庁の強引な基地建設を阻止するためにはどうしたらよいかを相談した結果、その有力な方法の一つとして基地予定地を反対期成同盟や支援団体側が買取ろうということが問題になった。このような話はそれ以前からも話題になっていたのであるが、五月一八日の阻止行動のあとの話合の際、熱心な反対同盟の一人であった藤岡二郎の子供の藤岡博(当人も反対同盟の一員)が、自分の所有の土地を基地反対の側に売渡す意思のあることを伝えきき、基地反対側の代表として、山西きよ他十数名で五月一八日、藤岡博宅で土地買取りの話合をした。その結果、基地反対側を代表して山西において防衛庁が買取る値段を上廻る三一〇万円で本件土地を買取ることになったものである。もともと藤岡博は基地建設には反対であり、基地内に生活することの不安から百里を離れたいとは考えていたが、同人も本件土地を基地反対側に売渡すことによって基地反対に協力することを諒承し、本件土地を売渡すこととなったのである。

(2) 翌五月一九日最終的に買主は石塚力となったが、石塚力が代金を支払うものとは誰一人として考えていなかったのである。五月一九日の午後、山西きよの自宅に藤岡博、石塚力、山西きよらが集まって、既に用意してあった一〇〇万円を山西から藤岡に支払おうとした際、藤岡は「いや今、銭はいらないからいいよおかみさん」といゝ、一八日の夜支払った一〇万円もいま持っているというので、山西が石岡信金に電話をして係を呼び預金させた。なおその際藤岡やその弟から山西や石塚にたいし、仮登記がすんだから残代金を支払ってほしい旨の要請は何一つなかったし、さらに翌二〇日、藤岡らが山西きよ宅を訪れて甲二号証の契約書に残代金の支払について山西きよに全責任をもって貰う旨の奥書きを記入して貰う際にも、仮登記が済んだからとか、残代金をいつ支払ってくれるかといったことは全く話題にならなかったのである。

さらに藤岡は山西にたいし、本件土地について夏作をつくらせてほしい旨を申入れて、山西の承諾を得ている。防衛庁の売買価格には夏作の補償も入っているのである。たとえば船見儀助に支払われるべき補償金の中には当然夏作の補償が含まれているのであるから、補償金のほかに夏作を現実に耕作できるとすれば藤岡にとっては二重の利得であるはずである。

山西は藤岡にたいし、代替地は「よい土地をゆっくり探せ」、「あわてて悪い土地を買わないよう」に注意し、また橋本勝にもたのんで代替地をあっせんするなどの努力を藤岡のためにした。

また藤岡はその後も山西に「代金を払って下さい」といったことはない。役場の坂のところですれちがったけれども、いう暇はなかった。代金の支払をいうために役場で待っていたり、山西の自宅へ伺ったり、山西宅へ電話をしたりなどは一度もしていないのである。

(3) 五月一九日以降内容証明までの藤岡と国との関係

藤岡は五月一九日朝、宇野にあって、土地を山西へ売って、国には売れなくなったことを報告した。六月に入ってから、浦山、井手がきて、契約書などをみせ、残代金は貰っていない旨話した。その後宇野とあった。残代金の支払はいつになっているのかについては「かえって、宇野さんのほうから説明されたように覚えている」のであって、藤岡が売買契約書に売買代金は仮登記完了と同時に支払う旨の記載のあることをはじめて知ったのはこのときと判断される。もっとも藤岡は「山西さんは明日仮登記したらば金を払いますというわけだったんだが」ということを宇野の説明の前に話してあるというが、藤岡が仮りに右のように説明したとしても、それは却って、藤岡が宇野の説明があるまで甲二号証の契約書の中に代金支払時期が仮登記完了時である旨の記載があることに気がついていなかったことを示すものであり、六月一二日より二~三日前宇野の指摘によって藤岡自身始めて右「仮登記完了時」の記載を知ったことは明らかである。甲三号証の誓約書については藤岡は宇野にたいし、石塚から説明があったとおりに説明したがその内容は「藤岡さんが心配するといけないから、こういうふうに書いておきますから」といって、これは「何年何月じゃなくては(にならなければ)登記ができないけれどもほかの代金と一緒に払います(注・誓約書には「他一般の不動産移転の登記完了の際に御支払申上ぐ可く」とある)という取り極めだったとのべる。誓約書は藤岡もいうように「取り極め」である。

この際、宇野は内容証明を出すこと並に土地を防衛庁に売ることを求め、裁判をしなければならない旨を話した。六月一二日朝頃までに甲四号証の宇野が書いた内容証明が藤岡方にとゞけられ、署名捺印をして藤岡が発送するが、この段階で、藤岡と国との間で売買代金は決められておらず、二百六~七十万円が提示され、しかも、支払方法は、井手証言によれば二ケ月位さきの方であり、かつ裁判を予想されていたのである。

(4) 六月二三日の念書並に小切手について

六月二三日作成された念書によって藤岡の一ケ月先の立退きと宅地の明渡が定められ、残代金相当額の小切手を藤岡に交付されるが、この小切手が通常の用法にしたがって、直ちに銀行に振りこむことができたのか、山西きよの証言のように、念書による一ケ月先の立退きまたはそれ以内でも土地取得の時には山西方において現金とひきかえるという特約があったのかどうかについては、こゝでは仮定的主張であるためこれ以上触れないが、しかし、藤岡博の供述によっても、山西は藤岡が土地を買う必要があった場合でもお金を払ってくれないと思っていたかという質問にたいし、いやお金は払って貰えると思っていましたと述べているところからすれば、右小切手についても、わざわざ不渡りにして契約解除される口実とされることを承知で小切手を渡したとは思えない。弁護士が相談にのり、同席しているのに。また二四日に小切手が振りこまれ、その支払いについて銀行からその支払いについて問合せがあったのに、藤岡にたいし、山西の下に来てほしい旨の連絡をたのんだだけでわざわざ支払をしなかったのであるが、このようなことは、山西証言のように、右小切手につき銀行に呈示しないという特約の存在を示すものであるが、こゝでは深入りしない。

(5) 六月二四日以後の藤岡と国との関係

六月二四日、小切手を振込んで不渡となるや、藤岡は、山西宅へ寄ってほしい旨の伝言を無視して、銀行からの帰りに井手を訪れた。井手と浦山がおり、そこへ石岡警察署の福田を電話で呼び、藤岡が告訴人になって山西を起訴するかどうかについて福田に相談したが福田の意見で告訴をとりやめて民事の裁判がよいということになった。二四日に藤岡は井手、浦山と同行して上京し、池口部長とあい二五日防衛庁に土地を売ることとなった。甲一〇号証の一の売渡承諾書によれば、代金は二七〇万円(既払金を含む)で石塚との契約より四〇万円安く、国の都合で買収しないときでも異議はのべない。所有権以外の権利があるときは契約前に抹消すること、代金受領前でも家屋を移転し、離作し工事に着手してもよいというものである。売買代金の支払は大凡次のとおりである。離作補償料等一三九万三、六八四円は昭和三三年九月一五日、畑代金八六万九七円は同年一〇月一三日、家屋移転補償費二四万三、七〇〇円は同年一二月二七日、採草地一一万六、一九六円は三四年二月一〇日に支払われており、未だ宅地の代金は未払いで、藤岡は仮処分の保証金を出し、契約書によれば、藤岡の裁判費用は藤岡において負担しなければならないのである。代金において四〇万円も安くなり、宅地代は未だ受領できず、支払時期は山西の場合は七月には受領できるはずのところ、三四年の二月(七ケ月後)でも完済できず、さらに裁判諸費用の支出が必要なのである。これは井手、浦山、池口の証言にもかかわらず防衛庁の藤岡に対する、石塚への契約解除・国への売渡しにつき強制があったことを推認させるに十分である。

(6) 残代金の提供

山西きよ、石塚らは、新聞報道および仮処分申請を通じて藤岡より激しく非難され、藤岡が土地を防衛庁へ売ったとの疑いが濃くなったので、藤岡より土地の明渡をうけておらず、また、代替地購入の相談もなかったけれども、同年六月二九日弁護士渡辺良夫らの助言を入れ現金で残金一九六万円を用意し、翌六月末日、藤岡方へ持参提供したが受領を拒絶された。

2 信義則違反・権利濫用

(1) そもそも農地の売買は農地法所定の許可を停止条件としてその効力を生ずるものであるところから、本来売買代金の支払義務は、右農地法の許可があってはじめて発生するものであり、特約がなければ右許可があるまで支払義務が発生せず、したがって履行遅滞になることはない。当事者間の合意によって右の原則と異なる代金支払時期を定めること自体は勿論違法ではないが、右の特約ないしはその履行については、とりわけ買主にとって、一方的な不利益にならないようにしなければならない。農地法の許可もなく、不動産はすべて売主が占有し、農地は売主において耕作しているという状況の下において契約で仮登記完了時に残代金支払の約束があるとの一事をもって、催告ならびに契約解除を形式的に適用することは衡平の原則にも反する。極めて例外的に代金支払時期を農地法の許可の前に定めた特殊事情を合理的に検討することが不可欠である。即ち本件において仮りに仮登記の際に代金を支払うとの特約を認めるとするならば、それは売主に新しい農地等の購入の必要があるとか、あるいは引越や農地の明渡によって買主がこれを利用することによって利益をうけるのでなければ、買主にとって一方的に不利益であり、売主にとって一方的に有利な契約となり衡平の観念にも反するものである。

(2) 本件売買契約の目的は、単に買受人たる被告による土地の取得というにとどまらず、百里基地の建設反対のために基地反対運動の側に本件土地を確保させるということにあった。また藤岡自身も、基地反対運動の一員でもあり、その限りでは藤岡と山西、石塚側との間には共通の目的にむけられた信頼関係が存在し、契約の履行に関して多少のトラブルが起ったとしても、当事者間における円満な協議によって解決しうるとの期待を相互に有していたものである。従って、仮に受領した小切手が不渡となったとしても、本件売買代金について支払の責任を負っている山西きよは町長という公的な立場から信用度も高く、資力も十分にあること、さらには藤岡は山西が支払をしてくれることについてはこれを確信していたのであるから、山西きよにその真意を確かめ善処を求めるなどの手段を講ずるのが信義上要求される態度である。しかも、本件においては不渡りの際小切手の振出名義人である山西義雄から銀行の職員を通じて藤岡に対し山西方へ来てもらいたい旨が伝言されているのであるから、小切手を不渡にしたことが、代金の支払の拒絶を意味するものかどうかを山西夫婦に確かめるべきことが信義則上要請されるところである。しかるに藤岡はこのような手段を何ら講ずることなく、山西らとのそれまでの前記の共通の目的に向けられた信頼関係を裏切り、その翌日には自らも反対を表明していた百里基地建設のために、本件土地を防衛庁に売り渡したのである。このような藤岡の行動からみれば、おそくも同人が本件の停止条件付契約解除の意思表示をなす段階において、既に本件土地を山西、石塚らに取得させるのではなく、防衛庁側に取得させることを企図していたものといえる。しかも本件解除通知書が防衛庁の職員により作成されており、右条件付契約解除の意思表示は、自らは石塚らに対して本件代金支払債務と対価牽連関係に立つ本件売買契約上の債務(本登記手続の完了、土地の明渡)を誠実に履行する意思なくされたものであり、従って信義則に反するものであり権利濫用の故に無効である。

(3) さらに藤岡の本件解除は藤岡が解除をなすことによって得るべき独自の利益がないのに、専ら山西、石塚らの利益を害することを目的としてなされたものである。藤岡は本件契約解除の意思表示をなした当時も、またその後も、本件土地を引き続き占有しており、本件土地の内、畑及び原野については未だ本登記も了しておらず、且つ耕作を続けることすら許されていたのであり、特に日数を争って残代金を入手しなければならない必要性は全くなかったし、また小切手は不渡りになったとはいえ、本件売買について代金支払の責任を負っていた山西きよの信用度と資力よりすれば、代金の支払いに不安をきたすものではなかった。逆に、防衛庁の買取り価額は、甲第六号証の内容が正しいとすれば、藤岡・石塚間の本件契約に比してはるかに廉いものであり、藤岡としては防衛庁からの買いうけの申し込みを拒絶して石塚との本件売買契約を完結させた方がむしろ有利だったのである。これに対し、本件契約が解除されることにより山西・石塚側の損害は極めて甚大である。契約を解除されれば、石塚らにおいて本件土地取得を利用した農業の計画が破綻し経済生活上の不利益をうけるばかりか、本件土地売買の動機でもあった百里基地建設反対運動は足場を奪われることとなる。しかも藤岡の本件契約解除の真の目的は防衛庁に基地用地として本件土地を売り渡すためになされたのであるから、百里基地建設はかえって推進される結果となり、二重三重の意味でその利益を害されることとなる。以上の検討からすれば、本件契約解除は、藤岡の固有の利益を守るためになされたのではなく、国と藤岡が共謀して本件土地を防衛庁に取得せしめ、石塚側の百里基地建設反対運動に打撃を与えることを目的としてなされたものであることが明らかである。このように解除権行使が正当の利益に基づかず相手方当事者に対する加害の目的でなされたものと考えられる場合は、契約解除は信義則に反し権利濫用となる。蓋し、法定解除制度の目的は、契約の一方当事者に債務不履行のあった場合に、他方当事者に対し単なる損害賠償の請求権を与えるだけでは衡平に反するので、一方的な意思表示により契約関係を遡及的に解消清算させ損害の発生又は損害の拡大から免れる方途を与えようとするにあるが、本件契約解除のごとき場合は以上の法定解除制度の目的を逸脱するものだからである。

3 解除権行使の権利濫用による解除の一部無効

本件売買代金債務が全体として不可分の債務であるとの特約があったとしても、本件契約解除は本件宅地部分に関する限度で権利の濫用となり一部無効である。本件売買契約の締結に至る過程で藤岡が「土地を一括して買ってくれるのであれば売ってもよい」旨述べたことが、仮に本件売買代金債務を不可分の債務とする趣旨であり、その結果として本件代金債務が不可分の債務であったとしても、これを不可分とする目的は、藤岡が本件土地を全部処分してその代金を得て他に移転したいというにすぎなかった。しかるに本件契約解除の時点においては、石塚以外の買主として国(防衛庁)が買い取りの意思を表明しており、しかも国側は本件土地の全部を一括してでなければ買い受けないという趣旨でなかったことは甲第六号証(特に第六条)の内容上明らかである。しかも、藤岡はこの時すでに本登記まで完了した本件宅地に相当する価額をはるかに超える一一〇万を既に受領していたのであるから、藤岡が石塚との間で本件売買によって生ずる債務を不可分とした目的は、本件宅地を除く土地のみを防衛庁に売り渡してその代金を取得し、石塚に対し本件宅地の代金に相当する部分を除いた代金を返還することによって十分達成することができる状況にあったものといえる。したがって、藤岡が本件売買契約を全部解除したのは、これ以上代金債務の履行を不可分とすべき必要性がなくなり従って全部解除をする何ら正当の利益がないのに、専ら山西・石塚らにおける百里基地反対運動を挫折させ、かつ、土地を国へ売り渡す目的のためになされたものとしか考えられず、従って本件宅地部分に関する限りにおいては信義則に反して権利の濫用となり無効である。問題は本件宅地の代金をどのように算定し、一部無効の場合にどのように清算するかである。それは本件契約解除の一部無効による清算の趣旨に従って合理的に算出することができれば足りるのであって、藤岡と石塚との間の売買契約の中で、一つ一つの不動産につき代金が定められていることを必らずしも必要としない。ところで、本件土地売買契約の代金決定の経過をみるのに、当事者間での準拠すべきものは、国と船見との売買代金と、国と藤岡との売買代金であり、これは同じ基準で算出されている。その後の経過から明らかなように、藤岡の防衛庁にたいする売却代金や補償の総額は金二、六七〇、六七七円である。とすれば宅地の代金は甲六号証により金五七、〇〇〇円であり、これが宅地の正当な時価である。かりに、これに家屋移転補償費二〇万三、七〇〇円を加えても合計二六万七〇〇円である。したがって本件契約が形式上一括売買であったとしても、宅地代金をはるかに超える一一〇万円の支払は、少くとも宅地の契約解除の無効を論証する上で十分である。

(三) 原判決における事実摘示

1 ところが、原判決は事実摘示欄において、右「(二)1本件売買契約並に契約解除をめぐる事実関係」に関する記載が全くない。

2 前記主張(二)2(1)の部分については原判決には次のように記載されているが、「極めて例外的に代金支払時期を農地法の許可の前に定めた特殊事情を合理的に検討することが不可欠である。」以下がない。

「農地の売買における代金支払義務は、農地法所定の許可があって初めて発生するのが原則であるから、仮登記完了の時に残代金を支払う旨の特約があるからといって、農地法所定の許可もなく、売主自らは当該農地を占有してその耕作を続けている本件事案に対して、法定解除の規定を形式的に適用することは、衡平の原則に違反すること、」

3 同じく前記主張(二)2の(2)については、原判決では次のとおり、事実摘示では藤岡と山西・石塚間の信頼関係並に信義則上要請される部分について欠落している。

「被控訴人藤岡は、前記契約解除の意思表示をした時点において、すでに本件土地を被控訴人国に取得させることを企図していて、自らは、残代金の支払いを受ける対価として控訴人のためになすべき登記手続、土地引渡し等の義務を誠実に履行する意思を有していなかったこと、」

4 同じく前記主張(二)2の(3)については原判決の記載は次のとおりである。

「前記売買契約は、前叙のごとく、控訴参加人がその指導的地位にあった基地反対派によって、本件土地を反対運動の拠点とするために、締結されたものであるが、控訴参加人としては、被控訴人藤岡が前記契約解除の意思表示をした六月二三日までに、手付一〇万円を含めて一一〇万円の内金を支払い、訴外橋本勝を介して同被控訴人のために代替地を鋭意物色してきたし、また、同被控訴人に交付した小切手が不渡りになったとはいえ、該小切手は、前叙のごとく、残代金の支払いを担保するためのものであって、その交付に当り、銀行には呈示しない了解が取り付けられていたばかりでなく、控訴参加人が町長という公的立場にあって信用度が高く、穀物・肥料商人の妻として自らの資産も所有しており、現に同月末日には現金で全額の提供をしたほどであり、他方、被控訴人藤岡は、それまで百里基地反対期成同盟の一員として熱心に反対運動を進めてきた者であり、控訴人に本件土地全部を売却した後も、そのまま耕作を続けることが認められており、しかも、当時は、移転先の目拠も立たず、数日を争って契約を解除しなければならないほどの差し迫った事情はなく、被控訴人国との間に予定した売買契約の条件も、控訴人と締結した契約のそれに比べて遙かに被控訴人藤岡に不利なものであった。それにもかかわらず、同被控訴人が前記反対期成同盟の信頼を裏切り、控訴参加人に対しては、何らの催告も、残代金支払意思の確認すらすることなく、いきなり契約解除の挙に出たのは、自己の利益を守るためでなく、専ら、基地反対運動に打撃を与えることを目的としてなされたものであって、法定解除制度の目的を逸脱し、信義則に違反し又は権利の濫用であるというべきである」。

5 同じく前記主張(二)3については原判決の記載は次のとおりである。

「本件一ないし四の土地全部についてかかる主張をすることが許されず、また代金債務も不可分であったとしても、それを不可分とする趣旨は、同被控訴人をして本件土地全部を同時に処分することによって転居費用の入手を可能ならしめんとすることにあったのであるが、契約解除の時点において、被控訴人国は、本件の土地を除いても残余の土地を買い受ける意向を表明しており、また、被控訴人藤岡自身控訴人よりすでに本件一の土地の代金を上回る金員の支払いを受けていたのであるから、代金債務を不可分としておく必要性はなくなり、あえて全部解除をする正当な利益もなかったのである。したがって、少くとも、本件一の土地に関する限り、前記契約解除の意思表示は、信義則違反又は権利濫用として、無効であるというべきである。」

(四) 結論

以上のように、原判決は信義則違反・権利濫用の主張につき、五項目にわたる問題がありながら前記4(石塚・山西らの主張の前記(二)2の(3))の一部である、契約解除の目的についてのみ判示し、その余の点については何ら触れていないのである。もっとも原判決の理由第一の一、二の中で、前記主張のある部分については事実認定をしているものもあるが、前述の如く本件信義則違反・権利濫用を判断するに必要な重要な事実について判断を遺脱しているほか、原判決の中で、石塚・山西の主張として裁判所が摘示した部分についてまで何ら触れることなくこれを排斥したことは、判断遺脱・理由齟齬・理由不備の違法がある。しかも右は判決に影響を及ぼすことが明らかであるので破棄されるべきである。

第二点 原判決には、憲法九八条の解釈適用に誤りがある

一、憲法九八条の「国務に関する行為」の解釈適用の誤り

(一) 憲法九八条の中に「国務に関する行為」が特に規定されるに至った趣旨

1 「国務行為」の規定が条文化された歴史的背景

明治憲法のもとで軍国主義者が政府の権限を独占、濫用し、天皇の名を利用して人権侵害を恣にし、自衛の名のもとに無暴な戦争を開始・拡大し、中国・東南アジア・南太平洋の各地を戦火にさらし、数千万人の住民・兵士を殺傷し、その国土を荒廃させ、ついには、逆に日本国土も空襲にさらされ、その挙句、人類最初の原爆投下を受けるに至った。日本政府がポツダム宣言を受諾して戦争が終ったとき、すべての人々は「再び戦争の惨禍をくり返したくない」という点で一致した。戦争を開始したのは日本政府であり、又、政府を利用した軍国主義者であって、国民ではない。それで、戦後、日本政府が新憲法を制定するに当り、その基本目的を、政府の行為によって再び戦争の惨禍をくり返さない制度的保障を確立することとしたのである。憲法における平和主義、民主主義、国民主権主義、基本的人権尊重主義等の諸原則は、政府の行為によって再び戦争を起すことなく、平和のうちに生存できるための最低条件なのである。ところで国の政治が、法形式を通して運用される以上、憲法上の諸原則がすべての法形式の中に貫徹していなければ憲法制定の前記目的は達成することはできない。そのためにすべての法形式は、憲法に従属し、憲法に抵触することは許されない。そこで所謂憲法の最高法規性が要請されるのであるが、現実問題として、政府が法形式によらない行為をなす場合が屡々あり、現に戦前において軍国主義者が、法形式にもとづかないで、政府の権限を濫用して、軍国主義政策を行った結果、国民を戦争の惨禍に陥れたのであり、その苦い経験から、法形式によらない「政府の行為」すなわち「国務に関する行為」をも、憲法に従属させ、これに抵触することを許さないとしなければ、平和主義の制度的保障として不充分である。

2 「国務行為」の規定が条文となった憲法制定の経緯

以上のような歴史的背景については憲法改正につき積極的な指導・勧告をした連合国最高司令部(GHQ)の認識も同様であった。とくにGHQの考えとしては、ポツダム宣言の降伏条件である、軍国主義の排除、平和主義、民主主義の確立を実現するためには明治憲法を全面的に改正することが不可欠であった。昭和二十年十月十一日、幣(しで)原首相はマッカーサーより憲法改正の示唆を受け、直ちに憲法問題調査委員会を設置し、改正要綱を作成したが、それは明治憲法を手直しした程度のもので、ポツダム宣言の条件を充足するには余りにも不充分であり、翌年二月八日、GHQに提出したが拒否された。一方、GHQ側は、昭和二十年十二月六日には、ラウエル民政局法規課長が「日本の憲法についての準備的研究と提案」を作成している。この文書の冒頭に「統治作用の実際を分析した結果、数多くの権限の濫用があったことが判明した。過去二十年間、軍国主義者達が政治を支配し、これを彼等の目的遂行に奉仕せしめることができたのは、このような権限の濫用によってである」とのべ、次に、「日本において民主主義的な傾向が伸長するためには、次のような弊風を抑止する必要がある」として九項目を列挙しているが、その中、e項は「政府の機能のすべてについて、憲法による規制が欠けていること」となっている(註1)。そして、この弊風をなくすために以下の附属文書に掲げる諸規定が設けらるべきであるとして、附属文書Bには、「国民に対して応える政府」(RESPONSIVE GOVERNMENT)の表題のもとに、右e項に対応する提案として、「憲法は国の最高の法であり、すべての国務に関する行為(直訳すると政府の行為)は憲法によって規制されること」という条項を設けるよう要求すべきである、と記載されている(註2)。原文はThat the Constitution is the supreme law of the land and will control all governmental act(註3)である。「政府の行為」は憲法によりコントロールされるべきであるという趣旨なのに、日本語へのほん訳者はgovenmental actsを「国務に関する行為」と訳した為、かえって意味を不明確にしてしまっているのである。この提案は、昭和二一年二月一三日、GHQより日本政府に手交された憲法改正案(マッカーサー草案)の第九〇条の中に採用され、憲法の条規に反する法律または命令および詔勅または国務に関するその他の行為(原文はother governmental actであり、「政府の行為」である)の全部または一部はその効力を有しない、となっている(註4)。右の改正案は、憲法制定会議で修正を加えられ、現行憲法第九八条において、「……その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部はその効力を有しない」という条項になった。ところが、現行憲法九八条の国務に関するその他の行為の英訳は、同じく政府の行為であるが、other act of governmentとなっており(註5)、マッカーサー草案の原文other governmental actとは異なるが、意味は同じと考えてよい。因みに、憲法前文第一段の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」の中の「政府の行為」の英訳はthe action of governmentであるが(註6)、マッカーサー草案の原文と同じである。

3 国務行為の規定の法意と今日的意義

憲法九八条に、憲法の最高法規性が規定され、とくに政府の行為(国務行為)をも憲法の規制のもとにおくようにした立法者の意図は、前述の歴史的背景と立法の経過から明らかであろう。つまり、法形式をとらない政府の行為と云えども、憲法の条項に反するものは効力を認めないことにしたのである。この規定によって、立法者は、再び軍国主義者が政府の権限を握り、これを濫用して、再び政府の行為によって戦争の惨禍をくり返すことのないように期待したのである。政府の行為によって、平和主義の原則を定めた九条に違反して、陸海空軍を保持し、そのために武力紛争を誘発し、再び戦争の惨禍をくり返すことが予想されるときは、裁判所は、九八条の規定により、政府のそのような違憲行為を無効として抑制しなければならないのである。日本以外の外国の憲法において、憲法の最高法規性を定める条項はあっても、政府の行為を、とくに憲法の最高法規性に従属せしめることを規定した条項は見当らないのも、前述した日本特有の歴史的背景と立法者の意思があったからに外ならず、裁判所は、この点を看過するならば、憲法の解釈を誤ることになるのである。

総論において指摘したように、政府が、憲法九条に違反して、アメリカの対ソ武力対決政策に従って軍事力増強政策を果しなく強化して、再び戦争誘発の危険な道を進みつつある情勢にある今日の事態においてこそ、憲法九八条の国務行為の規定が重要な役割を果さなければならないのである。このような事態を抑止するために、この規定は存在しているのである。今こそ、この規定を発動して、裁判所が「政府の行為によって再び戦争の惨禍をくり返すことのないよう」に規制しなければ、日本民族は、大きな悔いを残すことになるのは必至であることを銘記しなければならない。

(二) 憲法九八条の国務行為の解釈

1 国務行為の目的論的解釈

憲法制定の過程で、憲法の最高法規性を定める九八条の中で、法形式をとる通常の国家行為の外に、とくに、法形式をとらない「国務に関する行為」(act of government)すなわち政府の行為に対しても憲法適合性を求めるに至ったのは、憲法制定の目的(憲法前文第一段)を実現するため、すなわち、再び軍国主義が復活し、「政府の行為によって」戦争の惨禍をくり返すことのないよう制度的に保障することに主要な目的があったことは、前述のとおりである。してみれば、「国務行為」の解釈は、右の目的にそうように解釈しなければ、右の立法目的は達せられない結果となる。

国家統治の根本法であるわが国の憲法において、とくに、前文を附し、この前文において、憲法制定の由来、趣旨及び憲法のとっている国民主権主義、恒久平和主義及び基本的人権尊重主義を明らかにしているのであって、「これを正しく」把握することは、憲法の解釈の上からいっても極めて重要である。」(註7)換言すれば、憲法の各条項は、前文に述べられた目的や基本原理を実現するための制度的保障規定とも云うべきものである。現に、前文第一段の最後の部分「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という宣言を受けて、憲法九八条第一項は「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅……の全部又は一部は、その効力を有しない」と規定する。そして、右九八条の中の「国務に関するその他の行為」は、すでに指摘したように、前文第一段の憲法制定目的を明らかにした「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」を受けて、とくに規定されたものである。

「従って、「国務に関する行為」とは、法律、命令、詔勅のほかに、さらに網羅的包括的な趣旨を徹底させるために、目的に適合するかぎりでの、いっさいの国家の行為を指すと解すべきである。九八条一項がこのように「国務に関する行為」という規定づけをしたのは、定型的な法形式のととのった行為のみならず、可能的に広く国家行為を総括的包括的にとりあげ、それらすべてに憲法適合性を要求したものとして、きわめて注目すべきである。また違憲な国家行為により憲法保障がきずつけられない趣旨の現われである以上、解釈方法としては、この「国務に関するその他の行為」をいたずらに狭く解することのないよう(それによって憲法保障の意識を没却せしめることのないよう)留意すべきであろう(註8)。」

2 九八条による憲法的評価の対象

前述の如く、九八条の国務行為につき、目的論的解釈により、国務行為とは、いっさいの国家の行為を指すことが明らかとなった。しかして、現在論じられているのは、憲法の解釈・適用の問題であるから、次に、憲法九八条の国務行為の具体的な解釈・適用に当っての憲法的評価の対象についての問題を検討する。

第一の問題は、憲法的評価の対象のとらえ方の問題である。

政府が或政治目的に従い、政策を決定し、具体的に立案し、国民の財産にも影響を与えるような具体的措置を実施し、政策を実現する場合、様々な過程を必要とする。国務行為の憲法適合性の有無の問題として憲法的評価をする場合、国家(この場合は政府と同様と考えてよい)の政治目的に従った政策実現の全体を包括的にとらえて、憲法的評価をしなければならない。この国家政策実現の包括的全過程の一部を構成する個別的法律関係が紛争の対象となった場合において、その個別的法律関係を、包括的全過程から切り離して、その部分のみにつき別個に法律的評価をすることは全く無意味である。つまり、全過程を個々の具体的個別的行為に分解し、その個々の行為につき憲法の根本原理に照らして評価する場合、憲法的評価の側面からは無色の行為となってしまうおそれがあるからである。極端に云えば、憲法的評価の対象となる包括的全過程が、個々の憲法上無色の行為の集合体である場合すら考えられるのである。森全体の美的評価の基準をもって、森を構成する個々の樹木の美的評価の規準とはならないのと同様である。

要するに、国家政策実現の包括的全過程の一部を構成する個別的法律関係につき、憲法的評価の問題が提起されたときは、その個別的法律関係を、包括的全過程の国家行為の実現に至る不可欠の構成部分として把握し、その憲法的評価は、あくまで国家政策の目的実現の手段としての国家行為として把握しなければならないのである。

第二の問題は、憲法的評価の対象の法的性格如何の問題である。

前述の如く、憲法的評価の対象をとらえるに当り、国家政策の目的実現の全過程の包括的国家行為の憲法的評価の基準をもって、個々の法律関係をその不可分の構成要素として評価するのであるから、その個々の法律関係の法的性格の如何は問題とならないのが当然の帰結である。何となれば、国家政策の目的実現の全過程の包括的国家行為は、公法行為、私法行為或は事実行為などの個々の行為の有機的関連のもとに構成されているからである。つまり、個々の個別的行為をとりあげて、この行為は公法行為であるから、公法の最高法規である憲法による評価を受けるが、あの行為は私法行為或は事実行為であるから憲法による評価は受けないというような評価の仕方は、前述の如き国家政策の目的実現のための包括的国家行為に対する憲法的評価のさいには全く意味のないことであり、同時に、憲法に定めた諸原理の制度的保障の趣旨を没却することにほかならない。右の如き手法が許されるならば、政府は、憲法に違反する国家行為を、主要な部分において、私法行為或は事実行為を経由することによって実現し、これによって憲法的評価を免れることができるという不当な結果を是認することになる。このようなことを阻止するために、憲法制定過程において、わざわざ国務に関する行為、すなわち政府の行為を、憲法の最高法規性に従属せしめる規定を九八条に規定したことを忘れてはならない。

さらに、右の点に関連する第三の問題として、国務行為は国家権力の行使に限定さるべきものかどうかの問題である。

この点については、すでに右の論述で結論は明白であるが、若干の補足をしておく。

国家政策の実現の過程において、国家が当事者となり、国家の名において法律行為をなし、その法律効果が国家に帰属し、国家政策の目的を実現した場合、その法律行為に対する憲法的評価を、その法律行為が私法行為の形式をとっているからという理由で直ちに免れるわけにはいかないのである。その理由の第一はすでにのべたとおり、憲法的評価の対象の法的性格の如何は問題とならないのであるが、そのほかに、次の点も考慮しなければならない。つまり、私人間の法律行為において憲法が適用される。いわゆる憲法の第三者効力について、わが国の判例は、私法の一般条項の解釈を通じて憲法を間接的に私人間の行為に適用する「間接適用説」をとり(最高裁大法廷昭和四八年十二月十二日判決、民集二七巻一一号一五三六頁三菱樹脂事件)、アメリカでは、state actionの理論により私人間の一方が国家と同視すべき権能を行使した場合に国家権力による権利侵害と同視して憲法を適用する判例が積み重ねられている(註9)。ところで、これらの判例は、いづれも、私人対私人の私法関係であって国対私人の私法関係ではない点にとくに留意しなければならない。そもそも、憲法の第三者効力説は、私人対私人の私法関係に対する憲法の適用の問題であって、一方の当事者が国である場合には、憲法の第三者効力の問題は、そもそも生じないというべきである。何となれば、一方の当事者が国であるならば、何も、私法の一般条項の解釈を通じて憲法を間接的に適用したり、国家権力と同視して憲法を適用するなどの理論構成をする必要もなく、その一方の当事者として行為する国の行為は、当然に憲法の規制を受けなければならないからである。このことは、とくにアメリカのstate actionの理論から当然のことである。ここでは、当該行為が国と私人との間の私法行為であることは憲法的評価を免れる何の理由にもならない。けだし、私法行為に対する憲法的評価を可能ならしめるための前記のごとき理論構成に対し、私法行為であるという抗弁は、問に対し問をもって答えるに等しいからである。

要するに、私人対私人の私法行為に対してすら、憲法の第三者効力が認められるのであるから、ましてや、国対私人間の私法行為において、憲法が適用されるということは理の当然である、ということである。

以上の検討の結果明らかなように、憲法九八条の「国務に関する行為」は、私法行為、事実行為を含めてすべての国家の行為を指すものであり、公権力の行使に限定するべきものではないのである。

(三) 本件土地取得行為は、憲法九八条の国務に関する行為に該当し、かつ、憲法九条に違反するから無効である。

国は、第一次防衛力整備計画の一環として、関東地区に航空自衛隊の基地を建設する必要に迫られ、昭和三一年五月、航空自衛隊百里航空隊飛行場建設計画を明らかにし、本件土地を含む百里原の土地を買収することに着手し、地元の基地反対斗争を切崩しながら、迂余曲折を経て、被上告人藤岡から、「航空自衛隊百里航空隊用地第九次購入につき」という明示の目的を明らかにした上(甲第六号証)、本件土地を買収したことは、被上告人国も認めるところで争いのない事実である。

本件の場合、国が国家政策として、自衛隊の基地の設置を計画し、その実現のための不可欠の用地(土地のない飛行場はあり得ない)を取得するという行為は、私人たる藤岡と国家公務員である支出負担行為担当官防衛庁東京建設部長池口凌が、旧防衛庁設置法三五条、昭和二九年総理府令第三九号防衛庁附属機関組織規程四三条による権限にもとづき、売買契約という形式を通じてなされた。しかして、右売買契約は、国が百里基地設置の目的を実現するための包括的な全過程の中で、最も重要かつ不可欠の用地取得行為である。従って、前項において検討した国務行為の解釈からするならば、その取得行為が私法契約であっても、国家政策の目的実現のための国家の行為として憲法的評価を受けねばならず、右売買契約は、国のために行われた国による百里基地取得行為であり、憲法九八条にいう国務に関する行為に該当するものとして、憲法の最高法規性に照らし、その憲法適合性が問われねばならないことは明らかである。

しかして、航空自衛隊は、憲法九条二項で保持を禁止された空軍であり、憲法九条に違反し、航空自衛隊の基地は戦力の主要な構成要素であり、同九条二項でその保持は禁止されているところである。従って、航空自衛隊の基地設置のための本件土地取得行為は、国務に関する行為である以上、憲法の条項に違反することは許されず、憲法九条に違反し無効である。

(四) 原判決の憲法九八条の解釈、適用の誤り

原判決は、憲法九八条にいう「国務に関するその他の行為」とは、「国の行う一切の行為を包摂するものではなく、憲法の最高法規性の秩序のもとに置かれて、その効力が問疑されるに足りるだけの意味をもつ行為でなければならない。それ故、国家公権力行使と係り合いがなく、国が私人と対等の立場で行った本件土地取得行為のごときものがこれに含まれないことは、明らかである」というのである。前述した国務行為の立法趣旨及び解釈のあり方に照らせば、右の原判決の解釈の誤りは明らかである。

売買という形式さえとれば、私人と対等の立場で行ったものときめてかかる、その論理の不当さは、前述した憲法九八条に「国務行為」を規定した憲法制定者の立法趣旨や憲法の第三者効力を認めるための判例及び学説の努力などを冒するに充分である。

又、国務行為は、原判決のいうように「憲法の最高法規性の秩序にもとに置かれて、その効力が問疑されるに足りるだけの意味をもつ行為でなければならない」ことは上告人も是認するが、「それ故」に何故、国家公権力の行使と係り合いのない私法行為は含まれないのかについて、何ら根拠説明もないのである。私的自治の原則の支配する私法行為の分野には私法法規が適用され、憲法は介入しないという古典的法思想を単純に応用したもののごとくである。もしそうだとすれば大きな誤りである。その誤りの原因は、原判決が、上告人は本件土地取得行為が、国務行為に該当し、かつ憲法九条に違反すると主張していることについて、何らの理解もしていない点である。すなわち、憲法九条は、国の統治権の制限ともいうべき軍隊の保持の禁止条項であり、それは、私的自治の原則により、自由に処分のできる法益ではないのである。つまり、かりに私法行為であっても、ここでは私的自治の原則が働く余地はないのであり、まさに本件の土地取得行為は、軍事基地用地の取得という「憲法の最高法規性の秩序のもとに置かれて、その効力が問疑されるに足りるだけの意味をもつ行為」(原判決)そのものであるのだから当然に国務行為として憲法適合性が問われねばならないのである。その誤りの第二は、前述した憲法九八条の中に「国務に関する行為」が特に規定されるに至った歴史的背景、憲法制定の経緯、国務行為の規定の今日的意義及び、右の「国務行為」の規定の法意にもとづく国家行為の憲法的評価のあり方についての理解の欠落である。

更に原判決は、国家行為につき、公権力の行使の場合に限定し、私法行為は含まれないとしながらも、「行政府が、専ら裁判を免れるため、公権力を発動することなく、私法行為の形式に逃避して、公権力を行使したのと同じ結果を実現したような場合には、これを公法行為とみなして、それに憲法上の制約や法の留保等による公法上の諸規制を加えることも可能であろう。しかし、被控訴人国の本件土地取得行為がかかる場合に該当するものであることについては、控訴人において主張・立証しないところである」という。原判決の右の判断は、まさに判断の遺脱ともいうべき暴論である。すなわち、上告人は、被上告人国が、本件土地を含む百里原の土地を、百里基地用地として買収するに当り、売買という私法行為の形式をとって取得したのは、軍事基地の強制収用を除外した現行土地収用法による強制収用を脱法したものであり、その買収の過程は、まさに公権力の行使そのものという実態であり、従って、「私法行為の形式に逃避して、公権力を行使したのと同じ結果を実現した」旨を特に強調し、従って、公権力の行使として「国務に関する行為」に該当し、憲法上の評価を受けるべきである旨を主張していることは明らかである(上告人の控訴審最終準備書面一五九頁)。しかるに、原判決は、右の上告人の主張を看過し、判断を逸脱したことは明白というべきである。

以上検討したとおり、原判決の「国務行為」についての解釈及び本件土地取得行為に対する不適用の誤りは明白である。要するに、原判決の基本的姿勢は、本件土地取得行為につき、憲法的評価を回避することを至上の前提とし、これを貫徹するために、専ら私法上の紛争として処理し、軍事基地たる百里基地の存続を是認することを目的として判断したとしか考えられないのである。新憲法制定に当り、立法者は、このような結果となることの危険性を予見したからこそ、憲法九八条の憲法の最高法規性の規定を置くに当り、国務に関する行為をも、とくに挿入して憲法に従属せしめ、政府の行為によって、軍隊や軍事基地を設置して、再び戦争の惨禍をくり返さないように期待したのであるが、原判決は、右の立法趣旨を無視して、敢て、政府の違憲行為に手を貸したものと言わざるを得ない。

註1 高柳賢三外二名編著 日本国憲法制定の過程Ⅰ原文と翻訳 三頁

註2 前同書 一七頁

註3 前同書 一六頁

註4 前同書 三〇二頁及び三〇三頁

註5 前同書 四七八頁

註6 前同書 四三八頁

註7 註解日本国憲法上巻 四三頁

註8 奥平康弘鑑定証人作成鑑定書一一九頁及び一二〇頁

註9 芦部信喜編憲法Ⅱ人権(1) 四四頁

二、準拠法規を欠くことによる無効についての原判決の誤りと憲法違背

(一) 結論

国の本件土地取得行為の根拠法である旧防衛庁設置法などは憲法九条に違反し、同法九八条により無効であるから、本件土地取得行為は無効であるところ、原判決は、以下述べるとおり、この点の判断を誤り、もって右の憲法各条に違背したものであり、破棄さるべきである。

(二) 準拠法規と本件土地取得行為についての原判決の誤りと憲法違反

1 上告人の主張

この点についての上告人の主張は、要旨次のとおりである。

国の主張する本件土地所有権の取得原因は、国の行政機関である支出負担行為担当官防衛庁東京建設部長池口凌と藤岡博との間で締結された本件土地売買契約であるが、その売買契約書(甲第六号証)には「航空自衛隊百里航空隊用地第九次購入につき」右池口と藤岡が土地売買契約を締結するとあり、自衛隊基地用地取得のための土地売買であることが明記されている。国側は、前記池口が、行政機関としての地位にもとづき、国の機関として国のために国の行為をなす権限を有し、この権限の具体的行使として右契約を締結した。つまり国の本件土地取得は、池口・藤岡の民事売買契約の形式によるものの、国の機関により国のために行われた国の行為である。

それゆえに、このようなものとしての国の本件土地取得行為が有効に成立するためには、それが「憲法に適合した法律」にもとづくものでなければならない。

ところで本件土地取得行為の根拠法である旧防衛庁設置法ならびに昭和二九年総理府令第三九号防衛庁附属機関組織規程は、憲法九条に違反する自衛隊の管理・運営などにつき定めたものであるから、憲法九条に違反し、同法九八条により全部無効である。

よって国の本件土地取得行為は、その根拠法が違憲無効である以上、無効とならざるをえないものである。

また旧防衛庁設置法が全部無効であるかぎり、防衛庁は法律上存立しえず、その法律行為は無効である(以上の上告人主張の詳細については、とくに上告人側の一審最終準備書面一二六~一二九頁を参照されたい)。

2 原判決の判示

これにたいする原判決の判示は、次のとおりである。

「航空自衛隊の基地の設置なる行政事務は、……一連の行為によって完成されるものであり、そのうちの本件土地取得行為のごときは、……私人相互間に締結される売買契約と同様、私法の適用を受けるものであって、防衛庁がその契約を締結するにつき格別の根拠法規の存在を必要とするものではない」(原判決一三九頁)

「また、これ(本件土地取得行為)に適用されるべき財政法、会計法、国有財産法等の規定も、事務の遂行を公正ならしめるものであって、公法行為におけるがごとき公権力の発動そのものを根拠付ける規定ではない。」(原判決一三九頁)

3 原判決判示の誤り

原判決は右のとおり、国の本件土地取得行為が私人間の売買契約と同じく私法の適用をうけるものであり、根拠法を必要としないと判示するが、右の判示は以下述べるとおり、誤りである。

(1) 本件土地取得行為のごとく、①国の行政機関が、②法律で定められた権限にもとづき、③国のために行う、④国の行為は、民事売買契約の形式によるか否かにかかわらず、単なる私人間の売買とは異り、いかなるばあいにも「憲法に適合した法律」にもとづくものでなければならない。

このことは、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」て確定された憲法の基本精神にもとづき、すべての「政府の行為」つまりは国の行為を、「憲法に適合した法律」にもとづかせることにより、議会制民主主義にふさわしい形で国民主権に服せしめ、もって「政府の行為」により「再び戦争の惨禍が起ること」などを許さないために確立された基本原則である。

国の本件土地取得行為、つまり行政機関としての前記池口が、旧防衛庁設置法などの定める地位と権限にもとづく職務行為として、本件基地用地取得のために藤岡との売買契約を締結した行為は、この意味での「政府の行為」にほかならず、前記①乃至④の諸点において単なる私人間の売買とは異なるものであり、「憲法に適合した法律」にもとづくものでなければならない。

(2) 原判決もまた、他の判示部分においては次のとおり述べている。

「行政府が、専ら裁判を免れるため、公権力を発動することなく、私法行為の形式に逃避して、公権力を行使したのと同じ結果を実現したような場合には、これを公法行為とみなして、それに憲法上の制約や法の留保等による公法上の諸規制を加えることも、可能であろう。しかし、被控訴人国の本件土地取得行為がかかる場合に該当するものであることについては、控訴人において主張・立証しないところである。」(原判決一三四頁)

右の原判決判示は、たとえば「公法行為」とみなされなければ「公法上の諸規制」をくわえることができないかのように述べている点などにおいて、誤りをおかしている。

しかし右の判示によっても、国の本件土地取得行為が、判示されたばあいに該当することの主張・立証があれば、右行為は「公法上の諸規制」をくわえられるべきものとなりうるのであり、つまりは単なる私人間の売買とは異る「公法行為とみなして」、「憲法に適合した法律」にもとづいて行われるべき行為とみなされることとなる。

原判決は、この点についての上告人の主張・立証がないから、本件土地取得行為を「公法行為」とみなすことはできない、という。

しかしながら、本件訴訟記録を一見してあきらかなとおり、たまたま原審が(故意か偶然か)これを看過したものにすぎない。

この点について、上告人がかねてから行なってきた主張・立証は、たとえば次のとおりである。

(主張)

「国は、本件土地買収に当り、前述の如く、土地収用法による収用が禁止されているため、これを逃れる目的で、国防・軍事のための事業である本件土地取得行為を、私的売買契約の形式を借りることによって実現したのである。もし私契約の形式によりさえすれば、すべて有効になるというのであれば、強行法規規定の趣旨は没却されてしまうであろう。右国の本件土地取得行為は、強行法が禁止している軍事目的のための土地取得を形式的には違反しない売買という手段を用いて取得したものであって明らかに強行法規に対する脱法行為である。」(上告人側の一審最終準備書面一三一頁)

(立証)

「結論的にいえば、任意買収は私法上の形式をとるが、実体においては、土地収用法(ひとはこれを「公法」とよぶ)の拘束からまったく解放されているわけではな」い。(奥平鑑定書一三四頁)

「自衛隊用の土地取得については現行土地収用法は国に収用権を賦与していないと解される。」(同一三六頁)

このような主張・立証にもかかわらず、かりに原審が、国の本件土地取得行為は「専ら裁判を免れるため」になされたものではないから前記判示のごときばあいには該当しないとでもみたのであれば、それは実際には、前記判示により「公法行為」とみなしうるばあいを事実上皆無とするための口実といわざるをえない。

(3) 国の本件土地取得行為は、次の諸点からみても、私人間の売買と同視しうるものではなく、「憲法に適合した法律」にもとづくものでなければならないことはあきらかである。

(イ) すでに述べたとおり、土地収用法は自衛隊の用地として土地を強制収用することを一切認めていない。このため、国は本件土地取得にあたり、私法上の契約としての形式をとらざるをえなかったものである。

つまり、国の本件土地取得行為は、後記(ハ)で述べることともあわせ考えると、土地収用法の脱法行為とみざるをえず、私人間の売買とは異るものである。

(ロ) 国の本件土地取得行為のように売買契約の形式をとるばあいでも、その実態においては土地収用法の拘束からまったく解放されているわけではない。たとえば買収費の算定方法・金額決定については、土地収用法の定める「損失の補償」がわくとしてはたらくものとみられている。これは、国による土地などの取得を可能なかぎり統一的に処理するためである。このゆえに「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」(昭和三七年六月、閣議決定)は、任意買収か収用かを問わずいずれにも適用されてきた。このように、現行法の下では、国の土地取得が任意買収つまりは本件のように売買契約の形式によるか、収用手続によるかによって、本質的なちがいを生じるものではない。(奥平鑑定書一三四~一三六頁)

このように、収用によるばあいとの本質的ちがいなき本件土地取得行為を私人間の売買と同様に論じるのは誤りである。

(ハ) 国の本件土地取得行為は、売買契約という外見上の形式にもかかわらず、契約締結前後の経緯事情にてらしてあきらかなとおり、その実態はきわめて権力的であり事実上強制的なものであった。

つまり、本件土地取得行為とこれに至る全過程を貫く実態は、近代市民法が前提としている対等・平等の自由な私人間における真の意味での自由な意思にもとづく取引とは異り、一方の当事者である国が、軍事基地建設のための用地取得という違憲の「国策」を貫徹させるために、これにしたがわない住民にたいする苛酷な弾圧、買収、威圧、懐柔、利益誘導、分裂工作、謀略などあらゆる手段を用いて反対の意思と行動を挫折させ、結局買収に応ぜざるをえない状況、すなわち事実上は自由な意思決定をなしえない状況がつくりだされるなかで、本件売買契約の形式が整えられたものである。(上告人側の一審最終準備書面一三二~一四一頁、控訴理由書七五~七九頁など)

国の本件土地取得行為を私人相互間の売買と同様、とみる原判決の立場は、このような実態からまったく眼をそむけたものである。

(ニ) 国の本件土地取得行為は私人間の売買とは異り、すでに多角的に論じてきた意味での国の行為であるからこそ、土地取得代金を国庫から支出することができるのである。かりにそうではなくして、売買契約の形式で土地取得が行われたために、その取得行為が国の行為ではなくなるとすれば、本件土地を自衛隊基地用地として国のために使用することはできず、土地取得代金の支出行為などは違法とならざるをえないであろう。(奥平鑑定書一二七頁)

(4) 原判決は先に引用したとおり、「航空自衛隊の基地の設置なる行政事務は……一連の行為によって完成されるものであり、そのうちの本件土地取得行為」と述べている(傍点は上告代理人)。つまり原判決は、基地設置のための「一連の行為」を「行政事務」とみており、「そのうち」に本件土地取得行為をふくましめている。このかぎりにおいては、原判決の当該判示部分にてらしてさえ、国の本件土地取得行為は「私人相互間に締結される売買契約」とは異る「行政事務」ということになるのではなかろうか。

4 原判決の憲法違背

以上述べてきたとおり、国の本件土地取得行為は私人間の売買契約と同じであり、根拠法は不要であるとした原判決は誤りである。

この誤りにより原判決は、根拠法の違憲無効により本件土地取得行為は無効との結論にいたらず、結局憲法九条ならびに九八条の適用を誤り、もって右の憲法各条に違背したものである。

(三) 「事実上の官庁」の法理と原判決の誤りならびに憲法違背

1 原判決の判示

この点につき原判決は、次のとおり判示する。

「控訴人らの右主張は、旧防衛庁設置法の諸規定が憲法九条に違反するということから、前記池口凌が国の支出担当官としての職務権限そのものを欠くことになるという無効事由をもいうものである、と解することもできる。」(原判決一三九~一四〇頁)

「憲法違反の法律は、論理的には当初よりその効力を生ずるに由ないはずであるとはいえ、かかる法律に基づく公務員の行為も、そのすべてが無効となるわけではなく、本件土地取得行為のごとく、それが一般民衆ないしは特定第三者の権利・義務に係わる場合には、法的安全の根底から覆えされるような事態を避けるため、表見の法理又は「事実上の官庁」の法理によって、当該行為の効力を否定することは許されないもの、と解するのが相当である。」(原判決一四〇頁)

2 原判決判示の誤り

(1) 「事実上の官庁」もしくは「事実上の公務員」(de facto Beamten)の理論とは、たとえば公務員のなすべき行為を公務員でないものがしたときは、本来は無効の行為と認めるべきであるが、相手方が公務員のしたものと信頼するだけの相当の理由があったときは、事実上の公務員の行為として有効と解する、というものであり、行政法学上における無効の行政行為の転換をはかる理論のひとつとされている。(田中二郎・新版行政法(上)全訂第二版一四一頁)

(2) 右のとおり、「事実上の官庁」の理論は、行政法のレベルにおいて無効行為の転換をはかるために行われる理論のひとつであり、憲法論のレベルでの適用が予定されているものではもともとない。

しかも(3)で述べるとおり、行政法のレベルにおいてさえ、適用の要件は相当厳重にしぼられており、その解釈も厳重に行われているのである。

このような行政法上の理論を、なんらの慎重な理論的検討をくわえることもなく、当然であるかのように憲法論のレベルへともちこみ、根拠法の違憲無効のゆえにその効力を問われる行為の(有効への)転換をはかるために安易に適用することは、理論の解釈適用上の暴挙にほかならない。

とくに、原判決でさえ「憲法の憲法ともいうべき根本規範」として認めた憲法九条の違反に由来する無効行為の転換をはかろうとするものであるだけで、なおさらのことである。

「事実上の官庁」の理論は、違憲無効に由来する無効行為については当然には適用されるべきものではなく、少くとも「憲法の憲法」である九条違反に由来する無効行為につき適用する余地はない、と解すべきである。

(3) かりに違憲無効に由来する国の無効行為について、「事実上の官庁」の理論を適用することが認められるものとしても、国の本件土地取得行為については右の理論を適用するために必要とされる要件が欠けており、よって国の本件土地取得行為を右の理論により有効と解することはできない。

すなわち、無効の行政行為をもふくめておよそ瑕疵ある行政行為は、原則として無効または取り消しうべきものであるが、①それを無効としまたは取り消すだけの必要性がなく、②これを無効としたり取り消したりすることが相手方の信頼を裏切り、法律生活の安定を害するとか、社会公共の福祉に重大な影響があるばあい、には、瑕疵があってもその行為の無効または取り消しを主張しえないものとして、これを有効な行為としてとりあつかわなければならないことがある。(田中前掲書、同頁)

もとより一般論としては以上のことを認めることができるが、これを本件土地取得行為についてみると、どのようなことになるであろうか。

第一に、違憲の自衛隊の基地用地取得のために行われた国の本件土地取得行為について、根拠法の違憲無効のゆえにその効力が否定されるにあたり、これを無効とするだけの必要性がないと、だれがどのような根拠の下にいえるだろうか。本件の場合、とくに、憲法の最高法規性、九条の「憲法の憲法としての根本規範」性にてらしてみただけでも、これを無効とする必要性の最も高いばあいにほかならない。

第二に、相手方の信頼、法律生活の安定阻害のいずれと対比しても、憲法の最高法規性、とりわけ憲法九条の戦争放棄によって守られるべき平和と全国民生活の安定、全国民の身体・生命・財産の安全の確保にまさりうるものはない。社会公共の福祉に重大な影響があるか否かについていえば、憲法九条違反の自衛隊基地用地の取得行為を無効とせず、これを有効とするならば、それこそ、平和・民主主義や自由、安全、国民生活の安定など最も尊重・重視されるべき社会公共の福祉に重大な影響を及ぼすこととなる。

以上のようにみてくると、原判決のいう「法的安全の根底から覆えされるような事態を避けるため」とは、著しくかけはなれて重大な国民の諸利益が、本件土地取得行為を有効とすることによって侵され、もしくは侵されかねないこととなる。

よって、本件土地取得行為は「事実上の官庁」の理論によっても、これを有効とすることはできない。

(4) 原判決は、本件土地取得行為を無効とすることによる混乱を、あるいは懸念したのかもしれない。しかしこの懸念が無用であることは、原審において詳細に述べたとおりである。(上告人側の原審最終準備書面一六〇頁)

もしまた原判決が、本件土地取得行為を無効とすることにより、国が本件土地を自衛隊基地用地として取得できなくなることによる混乱を懸念したものとすれば、裁判所がみずからが憲法九条に違反して、自衛隊を合憲視する方向へとつながらざるをえないものである。

(5) 以上「事実上の官庁」の理論について述べたが、これらは概ね表見の法理なるものについてもあてはまるものである。

3 原判決の憲法違背

原判決は以上のとおり、表見の法理もしくは「事実上の官庁」の法理なるものの解釈を誤り、根拠法の違憲無効のゆえに無効である国の本件土地取得行為の効力を認めることにより、結局憲法九条ならびに同九八条の適用を誤り、もって右の憲法各条に違背したものである。

第三点 原判決には、憲法九条の解釈適用の誤りがある

原判決は理由第三「憲法違反の主張について」の中の四「単純な私法上の行為とみた場合でも無効」と題する項の1「いわゆる『直接適用説』」の部分で本件土地取得行為が憲法前文ないし九条に直接違反し違憲無効となるか否かの判断を二つの柱に分けて行っている。しかしながら、以下に詳細にのべるように、その第一の柱の「平和主義ないし『平和的生存権』違反」に関する主張も第二の柱である「憲法九条違反」に関する判示も、いずれも憲法の前文及び九条の法規範としての法的性格に関する判断を誤り、結局憲法前文及び九条の解釈適用を誤ったものであり、破棄さるべきである。

一、憲法の平和主義ないし「平和的生存権」保障の解釈適用の誤り

(一) 平和的生存権の法的性格

原判決は、一方で平和的生存権を「あらゆる基本的人権の根底に存在する最も基礎的な条件であって、憲法の基本原理である基本的人権尊重主義の徹底化を期するためには、「平和的生存権」が現実の社会生活のうえに実現されなければならないことは明らかであろう」とのべながら、その法的性格について、「平和ということが理念ないし目的としての抽象的概念であって、それ自体具体的な意味・内容を有するものではなく、それを実現する手段、方法も多岐、多様にわたるのであるから、その具体的な意味・内容を直接前文そのものから引き出すことは不可能である。このことは、『平和的生存権』をもって憲法一三条のいわゆる『幸福追求権』の一環をなすものであると理解した場合も同様であって、その具体的な意味・内容を直接『幸福追求権』そのものから引き出すことは、およそ望み得ないところである。」とし、「『平和的生存権』をもって、個々の国民が国に対して戦争や戦争準備行為の中止等の具体的措置を請求し得るそれ自体独立の権利であるとか、具体的訴訟における違法性の判断基準になり得るものと解することは許されず、それは、ただ、政治の面において平和理念の尊重が要請されることを意味するにとどまる」としている。(原判決一四三頁~一四五頁)

しかしながら、右の判旨は、以下に述べる点から批判されねばならない。

1 原判決は、憲法前文もしくは憲法一三条の文言の抽象性を理由として直ちに平和的生存権の具体的権利性や裁判規範性を否定している。しかし、憲法における基本的人権規定の文言は、多かれ少なかれ抽象的たることを免れないのであって、文言の抽象性ということを言うのであれば、それはあくまでも相対的な問題にしかすぎない。たとえば憲法二一条の「表現の自由」の権利性、裁判規範性を否定する者は世にないであろうが、そこにおける「表現」という文言が何を意味し、何を含むものであるかは、必ずしも具体的ではない。

右のように憲法の人権規定は、それが主権者の最高決定としての根本規範たる性格から、ある程度抽象的な文言とならざるを得ないのであって、その具体的意味・内容は、裁判所の違憲法令審査権などを通じて形成され、確定していくのである。したがって、憲法前文あるいは憲法一三条の規定が抽象的であるということは、平和的生存権の権利性や裁判規範性を否定する理由とはなり得ない。

のみならず原判決は、平和的生存権について、「戦争と戦争の脅威が存する限り、人間の自由はあり得ないということを思い致せば、(中略)あらゆる基本的人権の根底に存在する最も基礎的な条件であって、憲法の基本原理である基本的人権尊重主義の徹底化を期するためには、『平和的生存権』が現実の社会生活のうえに実現されなければならないことは明らかであろう。」と述べている。(原判決一四二頁~一四三頁)

まさしく原判決のいうように、平和的生存権が実現されなければ、憲法の他の基本的人権の保障も無意味に帰してしまうのであり、その意味で平和的生存権こそ、あらゆる基本的人権の前提となるものといえよう。

そうだとするならば、平和的生存権こそ、他のいかなる基本的人権にも増して、もっとも強く守ることが要請される権利でなければならないはずである。他の基本的人権に権利性や裁判規範性を認めておきながら、それらの前提となるべき平和的生存権のみ権利性や裁判規範性を、さしたる論証もなしに否定し去ることは、許されない。

2 原判決は、憲法前文を、憲法の他の規定と切り離して、その文言の抽象性などを一般的な形で問題にし、これを理由として平和的生存権の権利性、裁判規範性を否定している。しかし、前文の意味、内容は、憲法全体の他の規定、その制定過程と結びつけて理解されねばならない。

そのような見地からみると平和ということ自体が理念ないし目的としての抽象的概念であり、それを実現する手段、方法も多岐・多様にわたるとする原判決の判旨は、日本国憲法の制定過程や憲法第九条の趣旨についての理解を欠いた議論といわざるをえない。

日本国憲法は、その前文第一段において、「日本国民は、(中略)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることがないように決意し」と述べているように、全世界に悲惨な戦禍をもたらした第二次世界大戦、とりわけ広島、長崎をはじめとする我が国の国民の多大な犠牲を前にして、二度とこのような愚かな誤ちをくり返すまいとの全国民の決意をふまえて制定されたのである。

日本国憲法は、右のような具体的な歴史的事実を前提として制定されたのであり、その平和主義もけっして単なる政治的目標や抽象的理念などではなく、まさに悲惨な歴史を二度とくり返すことがないよう具体的な保障を手厚く規定しているのである。

この点について原判決は、平和を「実現する手段、方法も多岐・多様にわたる」などと述べているが、日本国憲法は、戦争をなくし全国民が平和に生存していくことができるための制度的保障として、戦力の不保持という具体的方策を明定している。日本国憲法は、戦力の不保持こそ平和を実現するための最良の手段であるという最高決定をしているのであり、その意味で日本国憲法における「平和」は、きわめて具体的な内容をもっているのである。

平和という概念の抽象性を理由として、平和的生存権の権利性を否定する原判決は、右のような日本国憲法における平和主義の特質を見逃していると言わざるをえない。

日本国憲法における平和主義の具体性ゆえに、日本国民は、具体的権利として、戦争を目的とし、戦力を保持することを目的とする行為により自らの権利を制限されない自由を持ち、戦争や戦力の保持を目的とする行為の中止を求める権利を有しているのである。

(二) 平和的生存権の現実性

ところで、平和的生存権は、第二次世界大戦から現代に至る国際情勢の中でますます現実性を帯びてきている。

たとえば、一九七八年の国連総会決議三三/七三「平和的生存の社会的準備に関する宣言」は、「すべての国とすべての人間は人種、信条、言語または性のいかんにかかわらず、平和的生存の固有の権利を有する。この権利ならびにその他の人権の尊重は、すべての人類共通の利益にそうものであり、大小を問わずすべての国のすべての分野における進歩の不可欠の条件をなすものである」(第一部一項)と規定している。

さらに、一九七八年の総会決議三四/八八「軍縮のための国際協力にかんする宣言」の前文もまた、「すべての国とすべての人間が有する、戦争の脅威なく自由と独立のうちに、平和に生きる不可譲の権利」を強調し、「その厳格な遵守は人類の最高の利益にそうものであり、人類の完全な発展のための不可欠の前提である」と述べている。(松井芳郎「国際法における平和的生存権」法律時報五三巻一二号参照)

右のように、国連総会など国際社会において平和的生存権が強調されるようになったのは、控訴審における高柳信一証言や最終準備書面において強調されていたように、第二次世界大戦を境として戦争と平和をめぐる状況が決定的に変化してきたことが、背景事情として存在する。

第一に戦闘員のみならず非戦闘員も大量にまき込んで戦われた第二次世界大戦は、戦争を一人ひとりの国民の生活や生存に直接関わるものとした。

第二に核兵器の発達とともに、核戦争による人類共滅の危険性が強まってきた結果、戦争は政治目的を達成するための合理的な手段とはなり得なくなり、全国民の生存を脅す無目的な大量虐殺行為と化している。

以上のような情勢は、戦争こそ全世界の人間の生存に対する最大の脅威であるという認識の基礎となっており、戦争を起こさない、戦争につながるようなことをしないということは、単に政治に要請されるというものではなく、国民の権利として、強く国家を覊束すべき事項として要請されているのである。

日本国憲法は、右のような「時代の要請」を先進的にとり入れて、平和的生存権を規定したのである。

(三) 平和的生存権違反の効果

裁判所としても、時代の要請に応え、憲法の理念を生かすという立場に立つならば、平和的生存権の内容を個々のケースを通じてより具体的にかつ豊かにしていくべきであり、そのことこそ現代日本における司法に要請されているのである。

右のような立場に立てば、本件における国と藤岡の契約も藤岡による契約解除も当然に有効とはなり得ない。けだし、平和的生存権は、私法上の行為といえども、戦争の準備や戦力の保持につながるような国の行為を否定しない限り、その実効性を保ち得ないからである。

二、憲法九条の直接適用を排除した原判決の誤り

(一) 「第三者効」に関する原判決の誤り

1 原判決は、憲法九条の法的性格に関し、「憲法九条は裁判規範として、法令、処分等の合憲性の判断基準になり得るもの、と解するのが相当であろう」(原判決一四八頁二行目から四行目)としたうえで、憲法条項の「第三者効」問題を検討し、次のように判示して九条の本件土地取得行為への直接適用を否定する。

「人権規定をもって専ら個人の人権を国家権力の侵害から保護することを目的とするものであるとみる伝統的な理論は、歴史的理由に由来するものであり、むしろ、人権規定は客観的な価値秩序を具体化したものとしてすべての領域の法に妥当する基本原理であるとする考え方が正当であるとしても、このことによって、憲法の人権規定が第一次的には人権の国家権力からの保護を目的とするものであるという事実とその意義が否定されてはならないのであって、右のごとき理由から、控訴人ら主張のごとく憲法の人権規定やその不可欠の前提条件たる規定が私法関係にも直接適用されると解することは、国家権力からの自由としての自由権の伝統的意味を変質せしめる恐れがある。そればかりでなく、憲法の保障する個人の自由や平等は、国家権力に対する関係においてこそ侵されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間においては、権利相互の衝突は避けられず、それを調整するためには、ある程度私人がこれを処分することを認めざるを得ず、そうした法律関係を設定する自由もまた、原則として、憲法で保障された基本権の一つであるから、かかる法律関係が単に人権規定やその不可欠の前提条件たる規定と形式的に矛盾するということだけの理由で、国家が直接これに介入するとすれば、つとに識者の指摘するごとく、私的自治の原則ないしは私法の独自性と自律性が脅かされて私法の社会化・国家化を来たし、本来自由を保護するために設けられたはずの基本的人権の保障規定が、自由を制約するための義務規定に転化し、しかも、具体的立法をまたずに、予測し難いような義務が、法解釈の名のもとに、基本的人権の保障規定やその不可欠な前提条件たる規定から直接引き出されるという不都合な結果を招来することとなる。そこで、かかる結果を来たさない限度において、公法と私法の二元性を維持し、私的自治の原則を尊重しながら、人権規定の効力拡張という現代的要請に応える方法として、憲法の人権規定も、参政権や社会権に関するものはともかくとしても、伝統的な自由権や平等権に関するものは、特段の事情がない限り、私人間の法律関係には直接適用されることなく、ただ、私的自治の制限規定たる民法一条や九〇条等の一般条項を通じ、それが憲法の人権規定に解釈されることによって、間接的に、その適用をみるにすぎないものであり、ここで解釈され、適用されるのは、あくまでも、私法の規定そのものであって、憲法の条規自体ではない、と解するのが相当である。」(原判決一四九頁~一五二頁)

2 しかしながら、原判決の右判示自体は、一般論として是認する余地があるとしても、右判示が本件で直接適用の可否が問題となっている憲法九条の規範についてそのまゝ妥当するかは憲法九条規範の性格を踏まえたうえであらためて検討を要する問題である。

原判決が右判示において述べているところは、その内容から明らかなとおり、伝統的な自由権や平等権に関してであり、原判決は自由権や平等権について妥当するとする間接適用説を憲法九条の場合そのまゝあてはめているにすぎない。すなわち、原判決には憲法九条規範の性格を十分に顧慮したうえで、直接適用の可否を検討したという形跡が全くみられないのである。

原判決は憲法九条の法的性格について、「憲法九条は、前文のように政治的理念の表明にとどまるものではなく、今次大戦の惨禍とこれに対する国民的反省に基づき、前文で表明された平和主義を制度的に保障するため、戦争放棄という政策決定を行い、それを中外に宣明した。憲法の憲法ともいうべき根本規範である。したがって、その意味・内容は、まさに、法規範の解釈として、時の政治体制や国際情勢の推移等に伴ってほしいまゝに変化されるべき性質のものではない、といわなければならない」(原判決一四六頁)と述べるとともに、「憲法九条は、戦争の放棄と戦力の不保持という国家統治体制の指標を定めた法規範であって、もとより、国民の人権を保障した規定ではないが、前述のごとく、人間の自由のないところに平和はなく、戦争と戦争の脅威が存する限り、人間の自由はあり得ないということに思いを致せば、憲法九条の基調とする平和主義は、憲法の他の基本原理たる基本的人権尊重主義の不可欠の前提条件」(原判決一四九頁)であるとしている。

原判決が自ら承認する右の如き九条規範の性格からすれば、九条規範は公法と私法の二元性の枠をこえて、両法域に共通の根本的・前提的規範であることが明らかであり、伝統的な自由権や平等権とはその性格を異にするものである。

原判決が九条規範の性格について右のように把握しながら、直接適用の可否に関しては伝統的な自由権や平等権と同日に論ずるのはまことに理解し難いといわねばならない。

3 原判決は、憲法の人権規定が私人間の法律関係に直接適用された場合には、私的自治の原則ないしは私法の独自性と自律性が脅かされるというが、そもそも私的自治の原則や私法の独自性・自律性なるものが私人間の法律関係においては自由や権利の私的処分が許されることを前提とする原理であることからすれば、九条規範の直接適用の可否を論ずるにあたって、私的自治原則等をもち出すのは的はずれというべきである。けだし、すでに述べたように、九条規範は国家の統治体制の制度的保障規定であり、その性質上個人の処分という観念を容れる余地がなく、本来、私的自治原則が適用される対象たりえないからである。

原判決は、また憲法の人権保障規定が私人間の法律関係に適用された場合には、基本的人権保障規定が、自由を制約するための義務規定に転化し、具体的立法をまたずに、予測し難いような義務が、法解釈の名のもとに、基本的人権の保障規定やその不可欠の前提条件たる規定から直接引き出されるという不都合な結果を招来するというが、右の如き「不都合な結果」なるものも、伝統的な自由権や平等権についてはともかく、九条規範に関しては考えることができない。

原判決は、憲法の人権保障規定一般、とりわけ伝統的な自由権や平等権を前提に直接適用が否定さるべきとし、その論理を九条規範にも同様に妥当させようとしているのであるが、九条規範の性格からすれば判決の論理にはとうてい賛同することができない。

なお、原判決は直接適用を否定する自らの立場を支持するものとして、最高裁判所昭和四八年一二月一二日大法廷判決(民集二七巻一一号一五三頁)を参照すべき判決として掲げている。たしかに、右判決は、人権規定のいわゆる第三者効力を一般的に否定し、私人間の関係への適用を認めないとの判断を示したものであるが、同判決は憲法一四条・一九条という伝統的な自由権や平等権についてのものであり、憲法九条規範の性格と伝統的な自由権や平等権との質的な相異を考慮するならば、右判決を九条規範に関して直接適用を否定するものとして援用するのは正しくないし、右判決が憲法九条規範をも考慮のうちにいれていたと解することはできない。

右判決が直接適用を認めない理由としてあげるのは、(ⅰ)「基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革」、(ⅱ)「憲法における基本的規定の形式、内容」、(ⅲ)私人間における対立の調整は「近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられる」という三点であり、これらの理由が憲法九条にあてはまらないことはいうまでもない。

憲法の人権保障規定、さらには憲法九条に関して、直接適用されるのか否かは、当該規定により保障される権利や九条規範の性格を十分に検討したうえで論じられなければならない。

近時憲法の人権規定については原則として直接適用を否定しながら、社会権や参政権等については私人相互の関係についても直接適用を承認する考え方が主張されているが、これは権利・自由の具体的内容、すなわち規定の文言・沿革もしくは性質・目的・本質・機能に着目し、私人間の行為を直接に規律する効力を認めようとするものである(例えば、芦部信喜著「現代人権論」有斐閣七二頁以下、佐藤功「日本国憲法概説」全訂第二版・学陽書房一三四頁)。

憲法九条規範の性格からすれば私人間の法律関係(本件土地取得行為を私人間の法律関係と解するとして)についても直接適用が肯定されるべきであり、直接適用を否定する原判決は憲法九条の解釈適用を誤ったものというべきである。

(二) 本件土地取得行為は、直接憲法九条に違反し無効である。

1 以上のように、憲法九条の法意、憲法規範の中の位置づけ等考慮すれば、本条項は本来私人間の行為にも直接適用されると解すべきであり、直接本件土地取得行為について、憲法九条を適用すれば、本件土地取得行為は後にのべるように当然憲法九条に違反し無効と判断されるはずであった。しかるに原判決は、憲法九条の第三者効を誤って否定したがために、本件土地取得行為を違憲・無効と判断することができないのであって、右は結局憲法九条の解釈適用を誤ったものといわざるを得ない。

2 憲法九条の立法の背景ならびに法規範性

原判決は憲法九条が、本件土地取得行為に直接適用されるかを論ずるに先だち、憲法九条が裁判規範といえるかとの点について次のようにのべる。

「当審におけるいわゆる『立法事実』に関する証人の証言を援用するまでもなく、憲法九条は前文のように政治的理念の表明にとどまるものではなく、今次大戦の惨禍とこれに対する国民的反省に基づき、前文で表明された平和主義を制度的に保障するため、戦争放棄という政策決定を行い、それを中外に宣明した・憲法の憲法というべき根本規範である。したがって、その意味・内容は、まさに、法規範の解釈として客観的に確定されるべきものであって、時の政治体制や国際情勢の推移等に伴ってほしいままに変化されるべき性質のものではない、といわなければならない。(中略)しかし、ここで問題となっているのは、国土の安全保障としていかなる政策を選ぶのが妥当であるかということではなく、本条がいかなる政策を選んだかということであり、また、その点は一応度外視するとしても、他に特段の事情もないのに、ただ単に本条が高度の政治性を有する事項に係わるものであるという一事のみによって、本条を政治的規範であると解し、本条に関する争いを司法の統制外に置くことは、それだけ本条の実効性を殺ぐこととなり、憲法がその最高法規性を明言し、裁判所に法令審査権を与えて憲法理念(精神)の貫徹を期した法意にもそぐわない恐れなしとしない。それ故、右の見解にはにわかに左袒することができず、憲法九条は、裁判規範として法令、処分等の合憲性の判断基準になり得るもの、と解するのが相当であろう。」(原判決一四六頁~一四八頁)

すなわち、原判決は憲法九条が今次大戦の惨禍とこれに対する国民的反省に基づき規定されたものであるとの立法の背景を正しくおさえ、従って、これが憲法の中核をなす、憲法の憲法ともいうべき根本規範であるとの正しい理解の上に立って、その裁判規範性を明瞭に認めている。この認識は上告審において本件土地取得行為に憲法九条を適用する際に当然維持されなければならないのである。

3 憲法九条の法意とその現実的妥当性

憲法九条は原判決ものべるように、「前文で表明された平和主義を制度的に保障するため、戦争放棄という政策決定を行い、」さらに、そのために一切の軍備の保有を禁じたものである。

上告人が原審最終準備書面ですでに詳細にのべたように(上告人の原審最終準備書面第三、三)、右のような解釈は制定当時の政府解釈であり、その後今日に至るまでの憲法学会、公法学会での確定した通説である。のみならず、今日の歴史的状況をふまえた場合に、ますますわが国の安全を保持する上で有効妥当な政策決定であることが明らかとなっている。

とくに右原審最終書面記載以後の反核兵器、全面軍縮への大きな運動は、憲法九条の選択した道が世界的にも真に平和を達成する方向として承認されつつあることを示している。

すなわち、一九七九年一二月西ヨーロッパ諸国に対しNATOの防衛計画委員会がアメリカの巡航ミサイル四六四基とパーシングⅡ型中距離ミサイル百八基の配備を決定したこと、今年八月アメリカのレーガン政権が中性子爆弾の生産を決定、さらに一〇月一六日レーガン大統領がヨーロッパで限定核戦争がありうることを示唆したことによって、NATO諸国の国民は自分達の頭上で核戦争がひきおこされる可能性を現実のものとしてうけとめ、是非をこえて驚異的な数の人々が様々な形での核兵器配備反対全面軍縮への闘いに立ちあがっている。例えば、一〇月一〇日には西ドイツの首都ボンで、ボン市の全人口に匹敵する三〇万人の人々が集まり核兵器配備反対を訴えた。この集会にはNATO軍兵士が制服で参加するなど軍隊内部でもアメリカの核戦略に反対するうごきが出ている。さらにイタリアでも九月二七日ペルージャからアッシジへの平和行進に、のべ七万人が参加し、ひきつづきロンドン、ローマ、オスロ、コペンハーゲン、パリ、ブリュッセルなどで次々と数万人ないし数十万人の参加する大集会が開かれている。

これら一連のヨーロッパでの動きは、従来NATOとワルシャワ条約機構との間の軍事的均衡の下で平和を確保しようとしてきた西ヨーロッパ諸国が、軍事的バランスによる平和はもはやありえないこと、全面的軍縮以外に真にヨーロッパの平和と安全を守る道はないことを意識しつつあることを示している。ストックホルム国際平和研究所はこうした大きな流れを表現して次のようにいう。

「袋小路に入った軍備管理に代わるべきものを探す時期が来ている。……軍備管理の現実主義がユートピアだったことがわかってくれば、おそらく軍縮の『ユートピア』こそもっとも現実的な方法であることが明らかになるだろう。人類の生存が賭けられていることを考えれば、これが唯一の現実的選択である。」(ストックホルム国際平和研究所編「核時代の軍備と軍縮」時事通信社)

4 被上告人の憲法九条解釈の誤りとこれがもたらした影響

被上告人国は以上のべたような全世界的な軍縮あるいは兵器廃絶のうねりに逆行し、一審以来憲法九条は自衛のための実力の保持を禁じていないとのべ、現実に政府が進めてきた軍備増強の事実を追認してきた。また一審判決もこの被上告人の主張を無批判に採用し、原審判決も結局は憲法九条適合性の判断を避けることによって、事実上わが国の急激な軍事力強化を放置している。

しかしながら、この間にわが国の自衛隊は、前記総論及び原審最終準備書面で詳述したように、米軍との共同作戦を現実に可能とすべく陸海空での米軍との共同演習をひんぱんに行ない、ますます米軍の補完部隊としての性格をつよくしている。

そして、本年五月九日の元ライシャワー駐日大使の発言が明らかにしているようにわが国の米軍基地は核持ち込み基地になっており、常時核を積載した艦船や航空機が日本を含む極東をゆうよくし、日本の空と海をおおっていること、しかもヨーロッパ諸国と同様に、アメリカのレーガン政権は、日本に戦域核兵器や巡航ミサイルを配備する計画であることが明らかにされている。

被上告人や一審判決のように「自衛のための防衛措置をとること」を容認し「自衛のために」安保条約を締結することも憲法九条は禁止していないと解することがもたらした現実は、以上のように、わが国が再び核戦争の危機の真ただ中にさらされることであり、自衛隊がアメリカ軍と一体となって戦争への危険な道をつき進むことであったのである。被上告人の憲法九条解釈及び自衛隊の憲法適合性に関する判断の誤りは、憲法の平和主義に真向から対立する現実をもたらすことによって、今や誰の眼にも明らかとなったといわなければならない。

なお、本件土地の取得行為当時(昭和三三年当時)の自衛隊は、今日の自衛隊ほど明瞭に違憲の存在ではなかったと主張する意見があるかもしれない。

しかしながら原審での古関彰一証人の証言及び同証言調書添付資料によって明らかなように(原審最終準備書面二四七頁以下)自衛隊は、警察予備隊として発足した時から、アメリカ軍の補完部隊として位置づけられ、共産主義諸国に対応するアメリカの極東戦略の一部をになう軍隊として成長することが予定されていたのであって、明らかに昭和三三年当時といえども憲法九条に違反する軍隊であり、今日の自衛隊のもつ本質は、当時の自衛隊ももっていた本質であることが明らかである。

5 本件土地取得行為は憲法九条に違反し無効である。

以上のべたように憲法九条は本件のような土地取得行為にも直接適用されるべきところ、本件土地取得行為は憲法九条に違反する航空自衛隊の基地用地取得のためのものであって、憲法九条に違反し無効である。

第四点 原判決には民法九〇条の解釈適用の誤りがある。

原判決は、その「理由」第三の四の2において、前記「本件土地取得行為」が私法上の行為であるとしても、憲法九条ないし平和的生存権の保障に反するものとして民法九〇条を介し無効となるとの上告人の主張を却け、独自の「公序良俗」論を展開しているが、右は明らかに民法九〇条の解釈適用を誤ったものであり、これが判決に影響を及ぼすことは疑う余地がないので破棄を免れない。

一、原判決の判断の特徴と問題性

――原判決の根本的誤り――

(一) 原判決の判示

原判決は、民法九〇条にいう「公序良俗」の意味内容として、憲法の人権規定等に具現された客観的価値秩序はそのまま国家・社会生活における公序良俗となるのではなく、私的自治の原則により当該私法関係の特質に応じて相対化されるから、「基本的人権を侵害したりその前提条件を蹂躙する私人間の法律行為が、現実に、民法九〇条にいう公序良俗に違反するといい得るためには、その人権侵害が、侵害の主体や侵害される人権の種類、性質、侵害の程度等当該事案の特質からみて、社会の存立、発展を脅かす反社会的な行為であり、しかも、そのことが、単に一党・一派の信念や倫理観に反するというだけでは足らず、その時代の社会一般の認識として確立されていて、当事者の意思に反してかかる法律行為の効力を否定することが当然であると一般に容認されるようなものでなければならない」と規定した上で、本件の場合、「自衛隊がその存在を否定されるのでなければ社会の存立、発展を脅かすに至るほど反社会的、反道徳的であることについて、……社会一般の認識として確立されていたものとはいえない」とし、結局において被上告人らの本件土地取得行為は民法九〇条にいう公序良俗に違反しないと判示している。

しかしながら、原判決の右のような民法九〇条の解釈適用は、以下に述べる理由により同条を誤るものであることが明らかであるが、ここではまず、原判決の「公序良俗」論の特徴とそのもって来たる所以を解明し、もってその根本的誤りを摘示することとする。

(二) 原判決の「公序良俗」論の特異性

民法九〇条は、「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」と定めるが、そこにいう公序良俗の具体的な内容を列挙することは、「不可能であ」り(我妻栄「民法総則」〈「民法講義」Ⅰ〉二三一頁)、その判断のための「客観的な基準をたてることがむずかし」いとされている(鵜飼信成「人権保障の私人間における効力――平等権をめぐって――」〈専修法学論集二二号〉一八頁)。しかしながら、それは、もともと「社会の秩序も、道徳観念も、その具体的内容は不断に変遷」し、それゆえ、「法律行為の内容をこの変遷するものに適合させようとする規定は、その内容が具体的ではあり得ない」ことからの必然的な帰結であって、むしろ、「第九〇条は、抽象的規定であることがその生命」なのである(我妻・前掲書二三一頁)。

そして同条を、よりひろく私法体系全体のなかに位置づけてみるならば、同条は、「法律行為の自由という大原則に対し、法律行為の無効を宣言する論理的・形式的な根拠を考える」ものであり、そこにいう「『公の秩序』と『善良の風俗』は、いずれも社会的観点から、法律行為の無価値判断を説明し正当化する概念で」「いずれも、法律行為の無効という、無価値判断の説明のための中間概念としての……論理的要素をなすことが唯一の役割であ」って、「要するに、『公の秩序』『善良の風俗』は価値判断を正当化し、国民を説得するための言語にすぎないのである」(「注釈民法」(3)四八頁以下)。いいかえれば、同条にいう「公序良俗」とは法律行為に通常認められる法的効果をあえて奪い去るためのマジック・ワードなのであって、その字義や概念を詮策することはほとんど無意味であり、肝心なことは、当該法律行為がいかなる社会関係や事情のもとで行なわれたかを仔細に把握し、これに対し的確な観察眼と洞察力をもって有価値・無価値の判断をくだすことにある。従来の判例・学説がいずれも「公序良俗」概念の定義づけやその判断基準の詮策をこととせず、一定の社会関係や実情を把えて端的に公序良俗違反の成否を判定してきたのも(詳細は後述)、そのゆえに外ならない。

しかるに原判決は、かような趨勢に背いて、公序良俗違反の行為とは「社会の存立、発展を脅かす反社会的な行為」でなければならぬとし、同条の解釈運用にきわめて厳しい枠を設けたが、同条にいう公序良俗違反の行為が反社会的行為であることは当然としても、それが「社会の存立、発展を脅かす」までに至らねばならぬと限定すべき根拠は、同条のどこからも導くことはできない。しかも、原判決は、「そのことが、単に一党・一派の信念や倫理観に反するというだけで足らず、その時代の社会一般の認識として確立されていて、当事者の意思に反してかかる法律行為の効力を否定することが当然であると一般に容認されるようなものでなければならない」とまで要求するが、かようなことは裁判官の公序良俗判断をより客観的妥当ならしめるための視点ないし心構えとしてはともかく、公序良俗違反の成否を左右する法律要件として掲げられるべきいわれは、同条の中から見出すことができない※。叙上のように、もともと同条については硬直した判断基準を掲げること自体適切を欠くところ、その上さらにその認定を制約しかねない厳格な要件を課するとなれば、同条はほとんどその死命を制せられることとならざるをえないのである。すなわち、「このような厳格な要件を必要とするのであれば、およそ公序良俗違反というべき場合はほとんどあり得ないこととなる」(佐藤功「百里基地訴訟控訴審判決――その問題点と評価」〈法学セミナー一九八一年九月号〉一八頁)。

いずれにせよ、この点にまず原判決の公序良俗論の特徴があり、問題性があるといわなければならない。

※ なお、この点に関しては、次のような指摘がなされている。「しかし、はたして国家社会の一般的な利益、道徳観念に関する意識が、個々の場合に国民の間に普遍的に成立しうるものかどうか、その内容はどのようなものであるか、それをどのようにして発見するか、ということになると、何一つ明らかなことがあるわけではない。」「そこで結局は公序良俗の内容は裁判所の決定するところとなる。裁判官はその際にその個人的な道徳観念によって恣意的な判断をなすべきではなく、また一党一派の観念に従って判断すべきでないということは当然であるが、国民全体の中に支配している平均的な倫理観念、支配的な国民意識、公正な考え方をするあらゆる人の道義感情に従うというように言葉の上で説明してみても、そのような説明によって一義的に公序良俗の内容が定まるわけではない。」(前掲「注釈民法」五三、五五頁)。

さらに、叙上のような原判決の民法九〇条解釈の特異性――いいかえれば、その強弁性――は、その自衛隊問題に対する適用の段階にも明瞭にあらわれているということができる。

すなわち、原判決は、既引のように右九〇条にいう公序良俗違反の成立要件として、(1)「社会の存立、発展を脅かす反社会的な行為」の存在と、(2)そのことが「時代の社会一般の認識として確立されてい」ることの二点を挙げておきながら、自衛隊基地設営のための本件土地取得行為が社会の成立・発展を脅かすほどの反社会的行為に該るか否かの審理検討は全く行なわず、もっぱら右(2)の社会一般の認識状況についてのみ判断を施している。しかも後者についての検討判断も、原判決自らがいうように、「ここにいう社会一般の認識なるものは、前叙のごとく、自衛隊がその存在を否定されるのでなければ、社会の存立、発展を脅かすに至るほど反社会的、反道徳的であることに関するものであって、憲法九条の規範的意味そのものに関するものではない」はずであるにも拘らず、実際に原審が行なった判断は、「憲法九条の規定に関して国民の間に客観的・一義的な意思の醸成されることを望むのは、およそ不可能に近」いということと、学界や国会における九条論争の三つの「見解は、文言解釈の面だけからいえば、たとえその結論の相反するものであっても、同じ理論的精緻さをもって、いずれも、ひとしくその正当性を主張し得る」ということの二点に尽きており、そのいうところの、自衛隊がその存在を否定されるのでなければ、社会の存立、発展が脅かされるに至るほどの反社会性が認められるか否かについての社会一般の認識状況は、なんら具体的に検討され判断されていないのである。(わずかに原審が行なっているのは、右のごとき憲法九条に関する国民や学界等の対立状況から推察して、自衛隊の存在の反社会性に関する社会一般の認識の状態が判断されるというに止まる。)これを要するに、原判決の民法九〇条解釈はその適用段階で全く貫徹されず、その適用の過程は前提たる同条解釈の内容とは関わりのないところで展開されているという外はない。

のみならず、常識的に考えても、原判決がいうような、その存在がそのまま社会の存立・発展を脅かすほどに反社会的な行為ないし存在というものは容易に想定しがたいところであって、自衛隊がさような状況に至らぬ限り、公序良俗違反とはされないとなれば、「裁判所は自衛隊の公序良俗違反性――憲法適合性――について判断する機会を遂に何時までももち得ないことになる」であろう(佐藤・前掲論文二〇頁)。

以上の次第で、原判決の示した民法九〇条の解釈適用は、従来の通説的理解から著しく逸れた特異な内容となっており、同条にいう「公序良俗」違反の判断に極めて厳しい要件を課した結果、ほとんど憲法規範無適用説にひとしい帰結となったといわざるをえない(浦田賢治「百里訴訟控訴審判決の問題点」〈ジュリスト七四八号〉五七頁)。

(三) 原判決の「公序良俗」論の問題性

――憲法判断回避とその重大な誤り

しからば、原判決は何故に、叙上のような過度に厳格な民法九〇条解釈を採用したのであろうか。

この点については、しかしながら、原判決自身が問わず語りに回答を示しているということができる。すなわち、原判決は、理由第三の四の(二)の(2)「裁判所と憲法判断」において、裁判所の法令審査権に触れ、「この権限は、極めて重大で、かつ、微妙な判断作用を伴うものであるから、他に特段の事情がない以上、その行使は、具体的訴訟事件の解決に必要・不可避な場合に限り、しかも、その限度においてのみ、正当化される」と述べ、「本件訴訟においては、前叙のごとく、控訴人らによって提起された憲法問題について判断を加えるまでもなく、すでに、本件訴訟の結論を導き出すことが可能であ……るから、自衛隊が憲法九条にいう『戦力』に該当するかどうかという問題については、あえて、当裁判所の見解を示さないこととする」としている。

「合憲性について重大な疑いが提起されても、……それを回避できるような法律の解釈が十分可能であるかどうかを最初に確かめるのが、基本的な原則であ」り、また、「裁判所は、憲法問題が記録によって適切に提出されていても、もし事件を処理することができる他の理由が存在する場合には、その憲法問題に判断を下さない」とするのが、識者のいわゆる「憲法判断回避のルール」であるとすれば(芦部信喜「憲法訴訟の理論」二三〇頁以下)、原判決が示した右の見解はまさしく憲法判断回避の立場そのものであり、いわゆる司法消極主義にほかならない。(原判決が、この点について、「いわゆる司法積極主義の問題とは、理論的には、直接の関係はない」と述べているのは、語るに落ちたという外はない。)

原審は、その弁解にも拘らず、本件土地取得行為の適法有効性に関して憲法判断を求める上告人の主張を却けるために、右取得行為を公権力の行使にひとしいなどとする見方を拒み(前記「理由」第三の一~三)、私法行為としてもなお憲法九条の規範がそのまま妥当するとするいわゆる直接適用説を否定し(同第三の四の1)、さらにそれ自体通説的支持のある間接適用説に対しても、憲法判断を「回避できるような法律の解釈が十分可能である」として、既述のような独自の民法九〇条解釈をあえて提起し(同第三の四の2)、そうすることによって、結局、本件における憲法判断――自衛隊の合憲性に関する――を回避し通した。原判決の民法九〇条=公序良俗解釈の特異性・強弁性は、とりも直さず原判決の理論的困難性を意味するものであるが、同時にそれは、こと程左様に熱心に、自衛隊に関する憲法判断を避けようとする姿勢のあらわれでもあるのである。

かくしてわが国の裁判所は、またしても自衛隊への憲法判断回避の事例を加えるに至ったが、このような裁判所の姿勢が前項で指摘したような今日の軍国化への趨勢の中で、果たして適正妥当な態度といえるかどうか、ことに戦後の憲法改革のなかでもたらされた貴重な違憲審査制のもとで、これが毅然として職責を果たす態度といえるかは、甚しく疑わしい。むしろ原審の採った選択は、「その現実的機能の側面では、……自衛隊の合憲性を、法律上にせよ、事実上にせよ、司法的に追認する役割を果たしている」(浦田・前掲論文五八頁)といわざるをえないのであって、ここにこそ原判決の「公序良俗」論の根本的な誤りが存するのである。

二、原判決の「公序良俗」論の誤り

(一) 「公序良俗」の意味・内容のとらえ方自体の誤り

原判決は、「憲法上の人権規定やその不可欠の前提条件たる規定には客観的価値秩序が体現しており」、「すべての法の分野に妥当するものである」ことを認めておきながら、私法においては、「当該私法関係の特質に応じて、公序良俗の具体的内容が相対化されていく」とした上公序良俗の判断基準を示し、私人間の行為が現実に公序良俗に違反すると判断されるためには、

① 「私人間の法律関係における人権侵害が、侵害の主体や侵害される人権の種類、性質、侵害の程度等当該事案の特質からみて、社会の存立、発展を脅かす反社会的な行為であること」

② 「しかも、そのことが、単に一党一派の信念や倫理観に反するというだけでは足らず、その時代の社会一般の認識として確立されていて、当事者のかかる法律行為の効力を否定することが当然であると一般に容認されるようなものであること」と、極めて厳格な二つの要件を充足する必要があるとする。

民法九〇条で規定するところの「公の秩序」とは、国家社会の一般的利益を指し、「善良の風俗」とは、社会の一般的道徳観念を指し、いずれも社会的観点から、法律行為の無価値判断を説明し正当化する概念である。民法九〇条は公序良俗という言葉によって表現される価値観の内容を何ら示していない。それは、公序良俗の具体的内容が不断に変遷するからその内容を列挙するのが不可能であるためである。すなわち、民法九〇条の公序良俗の規定は、抽象的規定であることがその生命である(我妻栄・前掲書ほか)。したがって、公序良俗の具体的内容は具体的な社会関係の特質に応じて法を運用することによって初めて明らかになるのである。これに対して、前述のごとく原判決は、極めて独自で厳格な要件を設定して公序良俗を解釈適用しているが、このような要件を設定すること自体、民法九〇条で公序良俗の規定を設けた制度趣旨に反するものである。

さらに、原判決の示した極めて厳格な公序良俗違反となるための判断基準を用いると、およそ公序良俗違反というべき場合は全くと言っていいほどあり得なくなり公序良俗の規定をおく存在意義さえなくなってしまうのである。そして、裁判所がこのような判断基準をとることによってもたらす社会的機能は、結果として、あまりにも現状肯定的であることになり、裁判所の法形成機能を過度に自己抑制し、人権保障機能を抑制することになるのである(佐藤功・前掲論文一六頁以下)。

また、原判決のような公序良俗の判断基準は、原判決の独断であり、従来の学説・判例にも反するものである。すなわち、学説は、公序良俗の具体的内容は、具体的な社会関係の特質に応じて法を運用することにより明らかになるとの前提のもとに、社会関係、行為の性質等から類型化し、その意味内容を明らかにすることに努めてきた(例えば、我妻栄「公の秩序善良の風俗」法協四一巻五号九〇四頁、川島武宜、「民法総則」二三三頁以下、法律学全集など)。これは、「公序良俗」の判断基準につき抽象的一般要件を設けることが法の趣旨に反し、かつまた無意味であると考えられていることを示すものに外ならない。また他方判例も同様の態度を示しており、例えば、日産自動車男女別定年制訴訟(最判昭和五六.三.二四)においては、公序良俗の要件については何ら述べることなく、定年制に差を設けることが合理性があるか否かにつき、担当職種、勤続年数、労働能力等について具体的検討した上で、民法九〇条の公序良俗に反するとの結論を導びいている。したがって原判決は従来の学説・判例にも全く反する立場に立っているといわねばならない。

(二) 「公序良俗」(民法九〇条)の適用の誤り

原判決は、「公序良俗」の適用にあたって「憲法九条違反と民法九〇条にいう公序良俗との関係について考察する。」とし、ついで、「(1)憲法九条の解釈をめぐる論争と社会一般の認識」という型で論理を進め、公序良俗違反となるか否かの判断にあたっては、自衛隊の実態について何ら判断を示すことなく、抽象的に自衛隊が反社会的であることが社会一般の認識として確立されているか否かという独自の基準を判断基準としているのである。しかしながら、公序良俗の具体的適用にあたって、判断の対象となるのは、公序良俗の内容すなわち具体的事実である(注釈民法(3)総則・五五頁以下)。前項で述べたとおり従来の判例においても「公序良俗」の規定の適用にあたって、その判例の対象となっているのは問題となっている事柄の具体的事実である。原判決のように「公序良俗」の適用にあたって社会一般の意識として確立しているか否かというような社会意識を基準としたような判例は全く見あたらないのである。前述した男女別定年差別を定めた就業規則の効力が問題となった事件(最判昭和五六.三.二四)は、定年制について男女差を設けることが社会一般の意識として確立していなかったからこそ、それが憲法問題として争われたのであり、それに対して裁判所が男女の差を設けることが合理的か否かについて具体的にその内容を分析・検討を加えた上、公序良俗違反との結論を導いているのである。したがって、原判決は「公序良俗」の適用についても従来の学説・判例に反することは明らかである。従来の学説・判例をもとにすれば、本件において公序良俗の内容となる具体的事実とは、国家機関である航空自衛隊が百里基地の設置を目的としてなした土地取得行為である。すなわち、右行為が公序良俗違反となるか否かが判断対象となるのである。そうすれば、当然にまず、自衛隊の規模、能力など実態の把握および本件で取得された土地が自衛隊の基地としてどのような機能をはたすのか、さらに地域住民にどのような影響を与えることになるのか等という事実関係が確定されなければならない。また、仮りに原判決のとった判断基準に従ったとしても、上告人石塚の所有権、平和的生存権(地域住民の代表として行使している側面をもつ)、さらにその制度的保障ともいうべき憲法九条の戦力不保持規定が、国家の機関たる航空自衛隊の基地用地として取得されることによりどのように侵害され、そのことが、どの程度反社会的であるかということが問題となり、そのことは当然に自衛隊の規模・能力などの実態の把握および百里基地用地として取得された土地が自衛隊の基地として現実にはたす機能等をまず事実として認定する必要があることには変りがない。原審においては上告人は自衛隊の実態につき、多くの時間をかけ主張・立証したにもかかわらず、原判決は自衛隊の実態につき全く判断を欠落させているのである。そして原判決は自衛隊の実態についての判断を欠いたまま、論理をすり変えて、憲法九条の解釈をめぐる論争につき論述し、憲法九条の解釈について主なものは三つに大別できるとし、その文言の解釈からはいずれも正当性を主張しうるとする。しかしながら、原審における右のような認定は、同じ判旨において憲法九条の法的性質について、「憲法前文で表明された平和主義を制度的に保障するため、戦争放棄という政策決定を行い、それを中外に宣明した憲法の憲法というべき根本規範である。したがって、その意味内容は、まさに客観的に確定されるべきものであって、時の政治体制や国際状勢の推移にともなってほしいままに変化されるべき性質のものでない。」と述べた部分と矛盾すると言わねばならない。

具体的事実が公序良俗に反するかどうかの判断は法律問題であり、原判決は、自衛隊が基地用地として本件土地を取得したという事実につき、自衛隊の実態、基地用地として取得することの社会的影響等に何ら判断を示さなかったのであるから、右は判決に影響を及ぼすことが明らかなる法令違背にあたる。

(三) 「社会一般の認識」の恣意的認定

原判決の「公序良俗」の適用が誤りであることは既に述べたとおりであるが、仮に、原判決の公序良俗の適用の仕方の考えをとったとしても、原審の社会一般認識のとらえ方は問題がある。すなわち、原判決は、「控訴人らの憲法九条の解釈が正当であるとしても、自衛隊がその存在を否定されるのでなければ社会の存立、発展を脅かすに至るほど反社会的であることについて、現段階においてはもとより、「本件土地取得行為」の行われた昭和三三年当時においても、社会一般の認識として確立されていたものとはいえない。」と述べているが、原判決の社会一般の認識のとらえ方は、非科学的であり、それ自体極めて恣意的である。

けだし、憲法九条と自衛隊の関係については、憲法学者の多くが自衛隊が創設されて以来一貫して自衛隊は憲法九条に反すると判断している事実を無視してはならない。さらに、憲法が実施されて以来、国民の多くが憲法九条の存在を支持しており、最近ではその割合が国民の八割以上になっているのである。原判決は右の国民意識の点につき控訴人が提出した世論調査は、いずれも、戦争放棄という憲法の政策決定の是非に関する意識状況の調査であって、憲法九条の解釈ないし自衛隊の合憲性そのものに関する国民の意識調査でないことを理由として、原判決のした社会一般の認識なるものについての認定を妨げる証拠となし得ないとする。しかしながら、原判決で憲法九条の法的性格について述べたとおり、憲法九条は戦争放棄という政策決定をとったところに、まさに意味があるのである。さらに自衛隊が創設された時点から自衛隊の存立そのものに疑問を持つ国民は少なからず存し、国民の過半数以上が一貫して自衛隊の現状維持ないし縮少を求めたにもかかわらず、その国民の声を無視して時の政府は一貫して自衛隊の増強に努め、現在ではわが国は世界有数の軍事力を持つ国家になっていることは公知の事実である。このような現実が存したにもかかわらず、憲法九条を支持する国民が増え続けた事実は、国民の多くが真に何を望んできたかを示すものであろう。また、自衛隊を支持する国民のうちその多くが、自衛隊の存在意義を災害救助に認めている事実は、逆に自衛隊が本来の活動をすることを否定するものと解される。また、一九八一年に入り、戦争の危険に対し、反核・平和を求める運動は世界的な広がりをみせており、憲法九条の平和主義の思想は、ますます存在価値が高まり世界的な思想になりつつある。以上の点からして、原判決の社会一般の認識のとらえ方自体、裁判所の独断にすぎないといわねばならない。

三、制度的保障規定としての憲法九条と「公序良俗」

(一) 憲法・憲法秩序は原則として全部が公序となる

原判決は、その「理由」第三の四の2の(一)公序良俗の意味・内容において、「憲法の人権規定やその不可欠の前提条件たる規定には客観的価値秩序が体現されており、この客観的価値秩序は、憲法の根本的決定として、すべての分野の法に妥当するものであるとしても、私法においては、その独自性と自律性を維持する必要から、控訴人らの主張するように、右の客観的価値秩序がそのまま公序良俗の具体的内容としての当該社会における社会生活ないし国家生活の重要な秩序となるのではなく」と判示する。

しかし、憲法・憲法秩序は、次の理由から、公序であり、原則として全部が民法九〇条の公序の具体的内容となるものである。原判決は、まず憲法と私法、憲法九条と民法九〇条との関係について、重大な誤りを侵している。

1 憲法・憲法秩序と私法の独自性と自律性

原判決は、憲法の私法関係における適用として、「間接適用説」について、私法の独自性と自律性の維持を述べているが、そもそも「間接適用説」は、憲法の私人間に対する「第三者効力」を認める方法として、私法の独自性・自律性を承認する立場から主張されたものである。したがって、上告人の憲法九条が民法九〇条の「公序良俗」を通して適用されるという主張は、そのことを当然踏まえたものであり、私法の独自性、自律性を害することはない。

しかし、憲法は最高法規として国法秩序の頂点に立つものであり、私法は下位法規であって、その独自性・自律性は、憲法・憲法秩序と関係する分野では、その容認する範囲内で認められるにすぎない。そして、それにより公法と私法との全法秩序体系の統一がなされるのである。

2 憲法の最高法規性と公序良俗

(1) 憲法の特質

近代以降の憲法は、国民ないし人民の人権保障のための国家権力の規制を目的とし、国家の統治組織・作用の根本を規定する根本規範である。国法秩序の体系に属する法規範の頂点に立ち、法律以下の法令に対して直接・間接に授権関係に立つ授権規範である。また国家行為の内容を規律し、限界を定める制限規範でもある。このような特質を有する憲法は、国の最高規範として最高法規性を有し、したがって、国家法秩序の根本を形成し、公序の基本をなすものである。

(2) 日本国憲法の最高規範性

日本国憲法は、第二次大戦中のファシズムによる立憲主義の破壊の反省と英米法の法の支配の貫徹から、憲法九八条で憲法の最高法規性を定め、憲法に違反する法令、詔勅、国務に関する行為を無効とし、その保障として憲法八一条で裁判所に違憲審査権を認めた。違憲審査制の下においては、基本的人権が私法の基準となり、憲法は、公権力のみ対象といえなくなった。したがって、憲法・憲法秩序は、公序の根本であり、民法九〇条の公序の根本を形成する。

3 憲法九条は公序である

(1) 憲法の根本規範としての公序

憲法制定権者である「日本国民」が、十五年戦争を省みて、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、この決意に立って憲法前文に掲記したところの恒久平和主義は、日本国憲法の主要な構成原理をなしている。原判決も認めているように、「平和主義の確立が憲法制定の重大眼目」であるが、その平和主義を実現するために憲法条項の中に具体的に規定した規範こそが、九条である。したがって憲法九条は、原判決も認めるように「憲法の憲法ともいうべき根本規範」であり、憲法秩序の根本として、そのまま公序となるものである。

(2) 制度的保障としての公序

憲法九条は、憲法制定権者である「日本国民」が、国家の権力行使を制限して、恒久平和主義の実現のために、戦争等の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を規定したものであって、具体的内容の「明確な客観的制度的保障」(1)をしたものである。原判決も、憲法「前文で表明された平和主義を制度的に保障する」ものであることを認めている。

「制度的保障」とは、憲法により一定の制度に対し特別の保護が与えられることである。それは、国家権力に対し、「権制を法律による変性化の可能性から保護する」目的で構築されたもの(立法者の基本権破壊的作用を排除する目的で以て構築されたもの)にほかならない(2)。したがって、具体的内容を規定した憲法九条の規定は、そのまま憲法秩序となり公序となるものである。もしそのまま公序となるのでなければ、国家権力による変更に対し、憲法上の制度的保障としての意義を没却することになる。

(二) 私的自治の原則と公序良俗の内容としての憲法秩序の内容

1 憲法九条は、民法九〇条の公序の内容として「相対化」されない

原判決は、憲法と公序良俗について、前記引用部分に続いて、「私的自治の原則により、当該私法関係の特質に応じて、公序良俗の具体的内容が相対化されてゆくのである」と判示し、その理由として、前記四1(二)(2)において、「私人間においては、権利相互の衝突は避けられず、それを調整するためには、ある程度私人がこれを処分することを認めざるを得ず、そうした法律関係を設定する自由をまた、原則として、憲法で保障された基本権の一つであるから、かかる法律関係が単に人権規定やその不可欠の前提条件たる規定と形式的に矛盾するということだけの理由で、国家が直接これに介入するとすれば、つとに識者の指摘するごとく、私的自治の原則ないしは私法の独自性と自律性が脅かされて私法の社会化・国家化を来たし、本来自由を保護するために設けられたはずの基本的人権の保障規定が、自由を制約するための義務規定に転化し、しかも、具体的立法をまたずに、予測し難いような義務が、法解釈の名のもとに、基本的人権の保障規定やその不可欠の前提条件たる規定から直接引き出されるという不都合な結果を招来することとなる」と述べている。

(1) 私的自治の原則による相対化と制度的保障

原判決が述べる私的自治の原則による憲法秩序の相対化は、原判決も認めるように、国家権力に対する場合と異り、私人間においては、基本権相互の衝突が避けられず、それを調整するために基本権をある程度制限・処分する自由を認めざるをえないため、権利の効力が相対化するということである。

しかしながら、私的自治の原則は、憲法一三条の「個人の尊重」(個人の尊厳)を根拠とし、またそれは個人意思の自治(契約の自由)による個人の人格の自由な発展と、それによる社会の発展を目的とするものである。そのような私人間における基本権の効力の相対化は、一方当事者が本来直接憲法の適用をうけるべき国である場合には、右のような意味における私人間の基本権の衝突はありえないので、本件の場合には、私的自治の原則による憲法秩序の相対化はありえない。

また制度的保障は、前述したように、私人に対する基本権の保障と異り、国家権力の立法による変更に対し保障をするものである。主眼は国民全体との関係において制度として保障するものである。制度そのものについて、私人が制限、処分をすることは、事柄の性質上ありえない。したがって、制度的保障としての憲法九条が民法九〇条の公序として適用される場合に、その内容が相対化されるということもありえぬ筋合である。

(2) 公序としての憲法九条

制度的保障としての憲法九条が民法九〇条を通じ公序として適用される場合、憲法九条は、原判決も認めるように憲法のなかの憲法ともいうべき根本規範であり、憲法の構成原理としての平和主義の具体化規定であるとともに、それゆえに基本的人権尊重主義の不可欠の前提要件であり、具体的内容の制度的保障でもあるから、私人間で制限・処分できる基本権との比較衡量においては、憲法九条が客観的価値において優位に立つものであるといわなければならない。したがって、被上告人藤岡、同国間の売買について、右藤岡に売買契約の自由についての基本権が公序として認められるとしても、上位に立つ憲法九条の公序により制限をされることになる。

憲法が民法九〇条の公序を通じて適用される場合には、憲法が公序の意味を充填し、価値の強調ないし強化をするといわれているが、制度的保障としての憲法九条は、下位法規の民法による変更は許されず、その性質上そのまま適用されるので、民法九〇条の公序を「媒介」して適用されるというべきである(3)。

2 間接適用説と直接適用説との結果は殆ど変らない

憲法の基本権の「第三者効力」について、間接適用説と直接適用説とは、いずれも私的な人権侵害行為について、憲法の「人権規定の効力拡張という効果に関する限り直接適用説とほとんど相違はないといっても過言ではないのである」といわれている(4)。間接的効力説は、民法九〇条の「公序」の意味充填解釈として基本権価値を導入することにより、直接適用説とほぼ同様の結果となる(5)。私法上の契約について、憲法の基本権規定の直接適用も、民法の公序に憲法が入り公序の形で判断されるのも判断内容の基準、結果に相違なく適用法条が異るだけあるとの指摘がある(6)。私法制度・規定が現在かなり基本権保障を整備しており直接適用は補完的に止まる(7)とすれば、憲法秩序全体の統一からも両者の差異はできる限り避けるべきである。よって原判決のように憲法九条の間接適用について、直接適用とは著しく異る結果をもたらす基準を設けることは、憲法九条及び民法九〇条の解釈を誤るものである。まして、本件土地取得行為は国であるから、その土地取得行為は憲法九条が直接適用されると同様に解釈すべきである。

(三) 国の本件土地取得行為は公序としての憲法九条に違反する

上告人主張のとおり自衛隊は、憲法九条二項の「戦力」に該当する。そのための基地使用の目的で国が本件土地を取得する行為は、原判決の判示するような単なる私人間の法律行為ではない。私法が適用される場合があるとしても、国の行為として本来憲法の規制を受けるものである。したがって、直接適用説によるにせよ、また間接適用説によるにせよ、自衛隊のための本件土地取得行為は、(公序としての)憲法九条に違反し無効といわねばならない。

(1)深瀬忠一・法律時報四五巻一四号三八頁

(2)三並敏克・立命館法学九六号一五〇頁

(3)木村俊夫・九大法学三四号五七頁

(4)(5)芦部信喜・憲法Ⅱ人権(1)九一頁

(6)同・九五頁

(7)木村・前掲五八頁

四、平和的生存権と「公序良俗」

平和的生存権が権利性や裁判規範性を有していることについては、前述したとおりであるが、このことは、本件における公序良俗論の帰結にも当然に影響を及ぼすべきものである。

私人間の関係についても、基本的人権規定など憲法の基本的価値が尊重されなければならず、これが私法行為の形をとって侵害された場合には、民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定の適用があり得ることは、最高裁判例も認めるところである。(最判昭四八.一二.一二・判時七二四号一八頁)

平和的生存権は、私法関係、公法関係といった法律関係の性質を問わず、すべての法律関係において尊重されねばならない。本件のように戦力を構成する重要な要素である航空自衛隊の基地設置を目的とする土地取得行為は、それがたとえ私法行為の形をとっているにせよ、全国民の平和的生存権に対する重大な侵害となっている。このような行為の有効性を裁判所が認めることになれば、同じ憲法を頂点としながら、基本的価値体系において相互に矛盾し、相容れない二つの法体系の存在を認めることになってしまう。憲法が保障した全国民の平和的生存が、私法行為の形をとって脅かされることがないよう、私法解釈においても平和的生存権の法理がいかされるべきである。

とりわけ、平和的生存権は、「あらゆる基本的人権の根底に存在する最も基礎的な条件」なのであり、その内容たる戦争の放棄、戦力の不保持は、憲法における最高の政治決定なのであるから、他の基本的人権規定にも増して最大限に、私法解釈に反映させなければならないはずである。

その意味で、この問題は、単に平和的生存権の権利性といった法解釈論の帰結だけで決せられるものではない。

裁判所としては、憲法の規定する平和主義の理念を尊重するのか、しないのか、それを全法体系の解釈にいかすのか、いかさないのかという基本的選択を迫られているのである。

上告代理人渡辺良夫の上告理由〈省略〉

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